神職の喜び ―吉水神社にて―

かつて、世界遺産・吉水神社の宮司を務めていた頃のこと。春の柔らかな陽光に包まれ、桜が満開を迎える吉野山は、まさに「一目千本」と謳われる絶景をその身に宿しておりました。
その日も、朝から多くの参拝者が訪れ、社務所は賑わいを見せていた。だが、どれだけ忙しかろうと、神職の本分は「目の前の一人」に心を向けることにあると、宮司は常に思っておりました。
ある午後のこと、一人の参拝者がゆっくりと足を運んでおられる姿を見かけました。歩行が困難なご様子ながら、桜を仰ぎ、社殿を見上げ、手を合わせられるその姿に、自然と足が向きました。お声をかけ、境内のご案内をしながら、義経・静御前の潜居の間や、後醍醐天皇の玉座の間、そして豊臣秀吉が花見の本陣とした吉水書院の一室へと、心を込めてお連れしたのです。
その方が、後日、丁寧なお手紙を送ってくださいました。
吹田市にお住まいのT様からの便りには、宮司が手を添えたこと、祈りを捧げたこと、そしてともに写真を撮ったことに対する深い感謝が綴られておりました。
何より胸を打たれたのは、「桜満開の吉野の思い出もさることながら、宮司の温かく優しい心配りが一生の思い出になった」と書かれていた一文でした。
神職の務めは、ただ神社を管理し、儀式を執り行うだけではありません。むしろその本質は、参拝者に寄り添い、目には見えぬ「祈り」の力を届けることにあります。
神に仕えるとは、人の苦しみや願いを、神に届ける橋渡しとなること。そして、その祈りが通じたかのように、参拝者の表情に安堵や笑顔が戻る瞬間、神職としての何よりの喜びがあるのです。
あの日、満開の桜が静かに舞う吉野の空の下で、T様の手を取り、坂を下りた記憶が、今も宮司の胸に残っています。
神社という場は、歴史の重みだけでなく、人の心の痛みや願いをも受け入れる「癒しの場所」でなければなりません。神と人とをつなぐ道のりに、こうして感謝の言葉をいただけたことは、神職としてこれ以上の光栄はありませんでした。
吉水神社の宮司であった日々、一人ひとりの参拝者と向き合い、祈りを捧げ、ともに時間を過ごす中で、神道の本質は「人の心に寄り添うこと」であると確信するに至りました。
これからも、どのような場所にいても、神の御心を人の心に通わせることを忘れず、今日もまた、誰かの心に小さな光を灯せるようにと祈っております。