敗北の責任を取らぬ者に国を任せてはならぬ

政治家にとって最も重んずべきは「出処進退」の心得である。いかなる立場にあろうとも、民意の審判を仰ぎ、その結果に対して潔く身を処すことは、為政者として当然の姿勢であるはずだ。ところが、今の日本の政治家たちはどうか。己の保身と地位にしがみつき、敗北の責任すらあやふやにし、国民を愚弄するがごとき態度を平然と取っている。
先の衆議院選挙において、自民党は過半数を割るという歴史的な敗北を喫した。本来であれば、石破総理、森山幹事長、小泉進次郎の三名は速やかに退陣し、政権の総辞職をもって国民に謝罪すべきであった。出処進退とは、己の進むべき道、退くべき時を知ることであり、それを誤れば、政治の信義は地に堕ちる。
石破茂総理は選挙前、「過半数を割れば責任を取る」と明言していた。だが、結果が出た途端にその言葉は霧消した。国民との約束を反故にした姿に、政治家としての矜持は感じられない。小泉進次郎もまた、自らの責任に言及しつつ政界を退いたかのように見えたが、いつの間にか農林水産大臣の椅子に納まり、何食わぬ顔で復帰している。誠実さのかけらもない。
結局のところ、自民党は敗北の責任を誰も取らなかった。その事実こそが、この党がもはや国民政党としての信義を失い、「責任逃れ」と「嘘」に塗れた組織へと変質してしまった証左である。
国民は見抜いている。小泉純一郎による郵政民営化の失敗は今なお深く国民の記憶に刻まれている。「改革」の美名のもとに、日本の富が海外資本に流出した。その過ちを正すどころか、今またその子息・進次郎が「農協」を悪玉に仕立て上げ、農業の民営化を企てている。だが、米の価格高騰の原因が本当に農協にあるのか。真実を見極めようとしないまま、組織と国民を対立させるような政治姿勢は、父の轍を踏みかねぬ危うさをはらんでいる。
愚かな政治家に国を託すわけにはいかない。河野太郎にしても然り。その場しのぎの弁舌と軽率な判断で、国民の信頼を裏切るような政治を繰り返している。もはや日本の政治は劣化の極みに達しつつある。
「出処進退」とは、ただ地位を去ることではない。それは、人間としての誠実、国家への忠誠、そして国民に対する無言の責任表明である。それができぬ者に、国政を担う資格はない。
政治の腐敗は制度の問題ではない。人間の問題である。岸田も石破も、為政者としての根本ができていない。人間学を学ばずして、国家を導くことなどできるはずがない。私はいま、すべての政治家に問いたい。「お前たちは、一体いつまで国民を欺き続けるのか」と。
国民の目は決して曇っていない。真に国家を思い、身を挺して国のために尽くす人物こそ、いまこそ必要なのだ。出処進退に潔き者こそ、真の政治家である。