二千日回峰早朝修行 天空の山を行く

83歳の若者が歩む道
午前二時半に目を覚ます生活を、果たしてどれほどの人が続けられるだろうか。まだ夜の帳が降りきったその時刻に、目覚めの一礼をし、身支度を整え、山への準備を始める。宮司にとって、それは修行ではなく、日常である。いや、もっと言えば、祈りそのものだ。
午前四時、歩みはじめる山の道には街灯ひとつない。頼れるのは月の明かりと、長年の感覚だけ。だが、足取りは迷わない。83歳の若者が行くその道は、ただの登山ではない。己の誠と、愛と、祈りを背負っての、一歩一歩の積み重ねなのだ。
今日で八百四十九日。二千日回峰行の行程の中でも、今はまだ中腹。だが、宮司の歩みは力強く、静かに続いている。修行という言葉が持つ苦行のイメージとは裏腹に、そこには喜びがある。自然の声に耳を澄ませ、風の香りを味わい、霧が晴れるその瞬間の神秘を全身で受けとめる。
午前六時、山頂に辿り着けば、空はもう青く、雲が金色に染まっている。この景色を見るために、誰が苦労を惜しもうか。ときに雨の日には、その音すら祝福の調べとして迎え入れる。どしゃ降りの雨音も、森の木々を打つ優しい手拍子のように感じることができる。
山頂で開く愛妻の手づくり弁当。曲げわっぱのふたを開けると、そこにはししゃも、卵焼き、ウインナー、ごぼうサラダ。どれも素朴な料理だが、見つめるだけで胸があたたかくなる。なぜなら、そこには明らかに“愛”がある。食べる人への思いやりと、励ましと、共に生きる力が詰まっている。
この朝の弁当をいただくとき、宮司は深く感謝する。自然の恵み、命のつながり、そして、弁当を作ってくれる愛する人への感謝。そのすべてが一体となって、山頂の食事が聖なる儀式のように感じられる。
宮司の歩みは、誰かに見せるためのものではない。己の魂を澄まし、人々の平安を祈り、自然との調和を実践するためのものだ。83歳の若者が行く、その姿には、年齢では測れない若々しさと気高さが宿っている。
世の中は便利さと引き換えに、何か大切なものを置き忘れてきた。それを拾い直すために、宮司は今日も山に登る。未来のために、今を丁寧に歩く。その姿は、静かでありながら、まるで刀を抜かぬ武士のような強さを持っている。
明日も、山は待っている。風が吹き、雲が流れ、森がささやきかけてくる。そして、ふたを開ければ、そこには変わらぬ愛がある。
それが、宮司の一日であり、祈りのかたちである。
