小泉進次郎氏の「軽さ」と、政治の重み

宮司は近年、政治家の言動を見つめながら、ある種の「軽さ」がこの国を覆いはじめていることに深い憂慮を抱いている。その象徴のように映るのが、小泉進次郎氏である。
彼の発する言葉には、耳に心地よく映る響きがある。しかし、その中身を精査するたびに、国家百年の計や、日本という共同体の歴史的・文化的重みを理解したうえでの発言かと、首を傾げざるを得ない。農協を悪者と断じ、改革の名のもとに民営化を推し進める構想を口にするが、その先にあるのは農民の生活か、それともアメリカ資本の市場拡大か。国民にはその判断が求められている。
父である小泉純一郎元首相は、郵政民営化を強行し、国家の根幹にあった財産を外資に差し出す道を開いた。その過程で得られた喝采と引き換えに、日本の金融資源の多くが米国債に吸い上げられたのもまた事実である。竹中平蔵氏とともに進めたこの「構造改革」は、果たして国益に資するものだったのか。あのときの評価を、いま私たちは再検証しなければならない。
そして今、息子の進次郎氏が、その道を継ぐような言動を繰り返している。「改革」という言葉を盾にしながら、国の伝統や制度を切り売りする態度に、宮司はどうしても疑念を拭えない。その語り口には、傲慢と未熟が同居し、謙虚さが見えない。まるで、何か大きな力に言わされているかのような印象すら受ける。国家観、歴史観、そして誠実さに欠ける政治家が国を導けば、いずれ国民がその代償を払うことになる。
政治家には、人を惹きつける言葉よりも、国家に奉仕する誠の心が求められる。進次郎氏のように、言葉巧みに響かせながら実体の伴わぬ政治を重ねれば、いずれ国民の信頼は音を立てて崩れていくであろう。
自民党はいま、分裂と混乱の淵に立たされている。その要因の一端に、世襲議員の無責任な言動があることは否めない。甘えと驕りによって築かれた政治家の姿は、民の信を失わせる。そしてその結果として、反対勢力が勢いを増し、国家運営はますます不安定になっていく。進次郎氏の存在が、結果的に自民党を内側から崩しているという自覚が、果たして本人にあるのだろうか。
政治家の家系に生まれた者には、相応の覚悟と器が求められる。三代目という立場は、もはや言い訳にはならない。企業であれ、商家であれ、三代目が失敗すれば屋台骨は崩れる。そしてこの国の政治もまた、例外ではない。
宮司は思う。たとえば安倍晋三元総理のように、信念を貫き、日本の独立と誇りを第一に掲げた政治家の姿を、私たちはいま一度思い起こすべきではないか。戦後レジームからの脱却を掲げ、国家主権の確立を目指し、外交でも毅然たる態度を貫いたその姿勢は、まさに政治家の原型であった。
小泉家の「改革」とは異なり、安倍氏の目指した道には、日本人としての矜持があった。国際的な協調を保ちながらも、自国を卑下せず、自国の文化と伝統に根ざした政治を展開しようとした姿勢は、保守の本流と呼ぶにふさわしい。
日本は、ただ賢しらな言葉では救えない。真にこの国を思い、この国とともに生きようとする志を持つ者が、政の舵を握る時を、宮司は静かに待ち望んでいる。