きこしめす心、しろしめす誠

石破総理のように、言葉を巧みに操る政治家がもてはやされる時代になってしまった。だが、宮司は知っている。国民が本当に求めているものは、巧言令色ではなく、「嘘をつかない政治」だということを。
誠真会が一貫して掲げているのも、「嘘をつかない」ことである。人を騙す者は、一時的に勝者に見えるかもしれない。しかしそのような行いは、必ず天の裁きを受ける。これは宗教的な戒めではなく、因果応報という、自然の理である。
神道の世界には、美しい三つの言葉がある。「きこしめす」「みそなわす」「しろしめす」。どれも尊い敬語であり、神々が人々の声を聞き、姿を見、心を知ってくださるという深い信仰に根ざしている。
「きこしめす」は、神さまが私たちの言葉や願いを「お聞きくださる」こと。「みそなわす」は、神さまが私たちの行いや努力を「見ていてくださる」こと。「しろしめす」は、私たちの心や思いを「知っていてくださる」こと。
宮司はいつも子供たちに語りかける。「悪いことをしたらあかんで。神さまは、ちゃんと見てはるよ」と。嘘をついて人を騙すことはできても、神さまはその嘘をすべてご存じなのだ。
一方で、努力を重ねる人、誰にも見られなくても、黙々と真面目に仕事を続ける人。そんな人の汗や涙も、神さまは見ておられる。評価されない日々に落ち込む人に、宮司は伝える。「お天道様が見てござるよ」「お天道様が聞いてござるよ」「お天道様が知ってござるよ」。それが、神道の持つ根源的なやさしさである。
人間は、ときに「誰も見てくれない」「誰も理解してくれない」と孤独になる。しかし、本当にそうだろうか? 見えないけれど、神は常にそばにいてくださる。見て、聞いて、知って、包み込んでくださる存在があることを、宮司は信じている。
古語を紐解けば、「みそなわす」は「ご覧になる」、「きこしめす」は「お聞きになる」、そして「しろしめす」は「ご存じである」という、最高の敬意を持って使われていた。これらは、ただの言語表現ではない。人の行為の中で最も尊く、美しい状態を示す言葉でもある。相手の存在を心の底から見つめ、聞き入り、理解しようとする――そこに、日本人が大切にしてきた「ほめたたえる心」がある。
宮司は、神さまの御働きに日々感謝しながら、神前に手を合わせている。そして願う。人々が、自分の言葉や行いに責任を持ち、真実を語る社会であってほしいと。政治もまた、神々に恥じぬ誠の道を歩んでほしいと。
神道は、ただの宗教ではない。人としての在り方を静かに問いかける、生き方そのものである。神さまは、私たちが何者であるかを、常に見て、聞いて、知ってくださっている。そのことを胸に刻み、今日を丁寧に生きること。それこそが、現代に生きる我々が持つべき「信仰心」なのだと、宮司は信じている。
※写真は朝の安倍神像神社の風景です。