笹百合に咲く愛と祈り

笹百合は、凛として咲いている。決して目立つ存在ではないが、その姿には何とも言えぬ気高さとやさしさがある。山の静けさの中にひっそりと、その清楚な姿を現す笹百合は、まさに日本人の美徳をそのまま映し出したような花である。
毎朝、山に登る。雨の日も、風の日も、晴れの日も、天の声に導かれるようにして、静かに歩を進める。道は決して平坦ではない。岩場を登り、泥に足を取られ、時に霧に包まれながら、それでも進む。その行の途中で、ふと目に入る笹百合の花に、何度救われてきたことか。
笹百合は語らない。だが、その沈黙の中にこそ、深い慈しみと励ましの力が宿っている。その佇まいは、まるで愛妻・デミさんのように思えてくる。いつも笑顔を絶やさず、細やかな心配りで見守ってくれる。笹百合の姿に重なるのは、彼女が持つさりげない愛のかたちである。
行者の道は孤独である。誰に褒められるでもなく、誰に見られることもなく、それでもなお、ひたすらに山を歩み続ける。その日々を支えるのは、信仰と、祈りと、そして人の愛である。笹百合は、そのすべてを象徴するかのような存在である。
宮司は、花に語りかける。ありがとう、今日も咲いていてくれて。ありがとう、そっと励ましてくれて。誰かのために咲くのではなく、ただその場にありのままでいるだけで、心に響く。その姿は、言葉を超えた教えであり、生き方の理想でもある。
笹百合の花は、静謐である。騒がず、慌てず、決して他と競わない。ただそこにある。その「在り方」こそが、現代に生きる人々に必要な姿勢ではないだろうか。速さや派手さを追い求める時代の中で、笹百合は何も変わらず、ただ咲いている。それがどれほど尊いことか。
二千日回峰を目指すその歩みの中で、宮司はこの花から教わっている。人は、自分自身であればそれでいい。見栄も競争もいらない。愛する人を思い、感謝の心を忘れず、黙々と、正しい道を歩む。それが人としての、そして神に仕える者としてのあるべき姿なのだと。
笹百合の前に立つたびに、自然と手を合わせる。祈りではなく、感謝の念がこみ上げてくる。花は、言葉よりも雄弁である。
やがて山を下りる時、心は静かに整っている。今日もまた、笹百合に癒され、励まされ、導かれた。人は自然から学び、愛から力を得て、また一歩を踏み出す。笹百合のように、しずかに、美しく、たおやかに。