至誠なき政治の終焉と、日本再生への祈り

宮司は、かつての日本の政治において真の「至誠」を貫いた政治家の姿を、安倍晋三元総理に見出していた。明るく、真っ直ぐで、何よりも「嘘をつかない」誠実な姿勢は、古より神明の御前に立つ者としての理想像とも重なるものであった。政治とは本来、民を導き、国を護るものであるはずだが、現代においては、その理念が音を立てて崩れ落ちている。
石破茂総理が率いる今の政権は、もはやその体を成していない。国民の期待を裏切り、真心を捨て去ったかのような政治が続けば、この国は滅びへの道を進むばかりである。人心は離れ、信頼は失われ、かつて誇りをもって国を支えた民たちも、今や政治に「うんざり」している。宮司はこの現実を神前において幾度も嘆き、祈り、そして筆を執った。
誰がこの現状を喜んでいるのか。答えは明白である。日本の真の独立と繁栄を望まない者たち、すなわちシナの習近平、あるいは日本に巣食う「微衷」なる似非愛国者の議員たちである。彼らは日本を表面上は愛するふりをしながら、その実、他国に媚びへつらい、己の保身と利得に明け暮れている。さらに、報道の使命を忘れ、偏向と沈黙で国民を欺くマスコミ、財務省という利権の温床、そして経団連という経済利権の集合体。彼らの存在が、石破政権の腐敗を支え、延命させているのである。
宮司は、こうした構造の中で、政治がいかに「神なき政治」に堕してしまったかを厳しく見つめている。神道とは「まごころ」の道であり、国の舵を取る者にこそ、その誠を求めるのである。ゆえに、石破総理に対しては「出処進退を明確にせよ」と厳命するのである。もはや国民からの信頼を失い、日本のために何一つ尽くせぬ者が、権力の座に居座り続けることは「穢れ」であり「禍」でしかない。
愚か者は、自らが愚かであることに気づかぬ。宮司は、そうした姿にこそ、神の怒りが降りかかると信じる。民の声に耳をふさぎ、国を他国に売り渡す者に、いかなる未来が与えられるというのか。政治家たちは、いま一度、「至誠」の意味を思い起こさねばならない。真心なき政治は、いずれ滅びる。日本の未来は、清らかな「まつりごと」に立ち返ることでしか救われない。
神前にて祈る。まことの政治家が、再びこの国を照らす日を。そして、そのために一人ひとりが目を覚まし、声を上げ、行動することを望むのである。