修行とは己を磨き、国を照らす道

修行とは、人のためにあるようでいて、実は己を律するための行である。春の風のように柔らかく人に接し、秋の霜のように厳しく己を正す。この二つの心を一つに保つことが、真の修行者の道であると気づかされる。

自慢のためでも、他人から称賛されるためでもなく、ただ己の心を鍛えるために続ける行。その継続の中にこそ、神々が与える試練の意味がある。笑われようが、理解されなかろうが、歩みを止めない者だけが、静かな力を得ることができる。

宮司は山伏として、また神社の宮司として、山に登り、祈りを捧げてきた。自然の中に身を置くと、人は自らの小ささを知る。木々は言葉を発せずとも、正しい道を教えてくれる。風は何も語らずとも、心の曇りを吹き払ってくれる。大地は沈黙のうちに、人の弱さと向き合う勇気を与えてくれる。修行とは、この自然と一体となるための下座行であり、己の欲を削り、心を澄ませるための営みである。

日本という国は、もともと「修行の国」であった。武士は剣を持ちながらも心を磨き、農民は田を耕しながら天地に感謝し、職人は一つの道を極めながら神に奉じた。それぞれが己の務めの中に修行を見いだし、そこに誇りを持って生きてきた。この国の美しさは、そうした無言の努力に支えられている。

現代は便利さと効率ばかりを求め、人の心が荒んでいる。だが、本来の日本人の強さとは、静けさの中に生まれる。言い訳をせず、見返りを求めず、ただ一歩を積み重ねる心こそが、国を支える根幹である。修行は国家の礎に通じる行為であり、己を磨く人が増えるほど、国の魂は清くなる。

宮司は、そのことを日々の祈りの中で確信している。人が自らを正せば、社会は正される。社会が正されれば、国は清まる。だからこそ、一人の修行が国を照らす光になるのだ。

祈り、鍛え、継続する。その愚直な歩みが、やがて神々の御心に届く。修行とは、神のためではなく、人としての義を貫くための道であり、その果てにこそ、真の日本人の姿がある。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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