日本を守る覚悟。台湾有事と武士道の再興

宮司は、国会での立憲・岡田克也議員の質問と、それを受けた高市早苗総理の答弁が引き金となって日中間が激しく揺れ動いた一連の出来事を見つめながら、この国の未来に深い思索を巡らせている。外交は繊細な秤の上で展開されるものであり、国家の指導者が口にする一語一句が、時に戦争と平和の境界を揺るがす。まして「台湾有事」という言葉が発する意味は重い。しかし、真に重いのは、言葉そのものではなく、日本が直面している現実の危機である。

宮司は、国民民主党・玉木雄一郎代表が岡田氏の質問の“本当の目的”について疑念を呈したことに、時代の変化を感じた。野党の中にあって、外交・安全保障のリアリズムを口にする者が現れ始めた。その声が玉木代表という立場から発されたことにこそ、意味がある。国を守ることは政争の具にすべきではないという、素朴だが最も失われていた常識が、今ようやく蘇りつつある。

他方、共産シナの指導者・習近平は、高市総理の発言を捉え、日本を「敵国条項」に基づいて攻撃できるという乱暴な論理を持ち出し、国際社会に恫喝を加えている。日本が軍国主義に走れば侵攻できるというのは、詭弁を盾にした威圧そのものであり、そこに見えるのは日本の再台頭を恐れる大国の焦燥だ。

宮司は、この状況を「日本人の試練」と捉えている。歴史を振り返れば、日本は幾度となく外圧によって覚醒を促されてきた。蒙古襲来、黒船来航、そして焦土からの復興。危機は、日本人を研ぎ澄まし、精神を整え、未来を切り開くための試練として立ちはだかってきた。そして今また、国家の安全保障が根底から揺らぐ時代を迎えている。

退役自衛官たちが「日本をどう守るか」を語り合い、超音速兵器やレールガンの名が上がる時代は、もはや仮想ではなく現実だ。空母が太平洋を進み、極超音速ミサイルが音速を超えて飛ぶ世界で、日本だけが「平和を祈る」だけで国を守れるはずがない。武士道はただ美しい思想ではなく、外敵から国と民を守るために培われた精神である。宮司は、この武士の覚悟を、現代にこそ取り戻す必要があると強く思う。

日本文化は、単なる伝統ではなく、危機を生き抜く智慧の塊である。
武士は、ただ刀を振るったのではない。
己を律し、名を惜しみ、誠を貫き、国家に殉じる覚悟を持って生きた。

国難に直面する今、日本文化を称揚するとは、雅を誇ることではなく、武士道精神を甦らせることである。弱音を吐かず、責任を曖昧にせず、外敵に対して毅然と立ち向かう姿勢。それは、戦争を望む心ではなく、侵略を許さない誇りのことだ。

高市総理の発言は、その覚悟を示すものであった。曖昧さを排し、国を守るために起こり得る事態を、真正面から語っただけである。外交を悪化させたのは、その覚悟を利用し、国際社会に誤った圧力を仕掛けた側である。

宮司は思う。
日本が再び立ち上がるためには、国民一人ひとりが、武士の心を取り戻さなければならない。

武士は恐れなかった。
なぜなら、守るべきものがあったからだ。

家族、領民、共同体、そして国家。
そのために命を賭す覚悟があった。

現代の日本人は、平和のぬくもりの中で、この覚悟を忘れかけている。しかし、国際社会の荒波は、容赦なく日本に迫っている。もし日本を侵略しようとする勢力が核を掲げて迫るならば、その時に必要なのは「希望」でも「祈り」でもなく、確固たる防衛力と備えである。

レールガンや極超音速兵器の研究は、日本が侵略を防ぐための最低限の備えであり、戦争を避けるための抑止力だ。武力とは、使うためではなく、使わせないために存在する。これは古来の武士が理解していた真理そのものである。

宮司は、これからの日本が進むべき道を、次のように見つめている。
国を守る覚悟を取り戻し、日本文化の精神的支柱を再び中心に据えること。
その先に、日本の未来がある。

国家の危機は、同時に精神の覚醒でもある。日本人は危機の中でこそ、本来の力を発揮してきた民族である。今こそ、内なる武士道を呼び覚まし、国家を守る誇りを胸に抱く時である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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