安全保障を戯画化する愚かさと、大和魂が求める国家観の覚醒

NHK「日曜討論」において、れいわ新選組の大石晃子氏が「自民党が戦争準備をしている」と発言し、それを共産党の山添拓氏が笑みを浮かべながら追随する姿を見て、宮司は深い憂慮を覚えた。国際情勢が大きく揺れる中で、国家の安全保障を語る場面が、政争の具として軽々しく扱われてしまう光景は、我が国の精神の脆弱さを露わにしている。

大石氏は「自民党が米国とともに中国と戦争をやる準備をしている」と語り、台湾有事を巡る高市総理の答弁を「日本政府を善、中国を悪と決めつける演出だ」と断じた。しかし、この言葉の軽さこそが、国の安全保障を真剣に考えていない証である。政治家であれば、言葉が国家の重さを持つことを理解していなければならない。大石氏のように、根拠薄弱な陰謀論で国の防衛努力を貶める姿は、責任を放棄した態度でしかない。

宮司は、大石氏の主張に潜む危険性を見過ごすことはできない。自国の安全保障の議論を、まるで娯楽番組の感覚で語り、聴衆の恐怖心を煽り、政府を批判するための材料として利用する。その姿勢は、現実に迫りくる脅威から目を逸らさせる役割しか果たさない。台湾情勢はもはや抽象的な議論ではなく、日本の生命線に直結している。海上交通路、経済安全保障、地域の安定。どれもが台湾の自由と安全に深く関わっている。これらを無視し、政権批判のためだけに語る姿勢を宮司は決して許容できない。

さらに深刻なのは、共産党の山添氏である。大石氏の発言を受けて苦笑を浮かべ、「戦争になり得ると言った総理の答弁は許されない」と語り、「台湾に軍事介入を公言した」などと指摘した。しかし山添氏の主張そのものが現実離れしている。日本が戦争を望んでいるかのように描き、中国側の主張に沿った言葉を日本国内で拡散する行為は、相手国の宣伝戦に自ら協力する姿勢であり、国家観の欠如そのものである。

宮司は、山添氏の発言に、戦後思想が育てた脆弱さの影を見る。日中共同声明を根拠に日本の防衛姿勢を批判するが、共同声明は無条件の従属を求めたものではない。ましてや中国が軍事的圧力を強めている現状において、かつての文言を絶対的条文として振りかざす態度は危険である。外交とは現実であり、国際社会の力学の中で己を守るための知恵である。かつての一文だけを盾に現実から目を背け、国の安全保障を放棄するような態度は、政治家として責務を忘れている。

山添氏が浮かべた苦笑は、国家の危機に対する軽視の象徴である。祖先が命を懸けて守ってきた国土に、今また迫る危機の影があるにもかかわらず、その場を笑いで受け流した姿勢は、大和魂から最も遠いものである。

宮司は、このような発言が国民の精神を惑わせることを最も憂いている。国家とは、政治家だけでなく、国民の精神の総和によって作られる。安易な発言が国民の判断を誤らせれば、国家の基盤は揺らぐ。日本の平和は、幻想や願望では守れない。現実を直視し、何を守るべきかを明確に見つめる強さが求められている。

大和魂とは、戦いを好む心ではなく、守るべきものを守る覚悟の心である。誠実さ、節度、そして揺るぎない意志。それらを兼ね備えた心が、国を支えてきた。台湾情勢が揺れる今、日本人は歴史の岐路に立たされている。誰のために、何を守るのか。その問いから逃れることはできない。

宮司は、日本人が今こそ精神の襟を正し、軽薄な言葉に惑わされず、国としての責務を胸に刻むべき時と考えている。国を守るための議論は、政争の道具ではない。国の未来を形作る責任ある議論である。大和魂を未来に繋ぐために、私たちは今こそ、誤った言葉に引きずられず、真実を見極める覚悟を持たなければならない。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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