愛国の至情を貫いた国士たち。清水澄博士の殉死と継承される志

歴史を学び、教養を身につけた者であれば、その名を知らぬ者はないはずの人物がいる。それが、大日本帝国の枢密院議長という重責を担った法学博士、清水澄(しみず とおる)博士である。

今日、博士の存在を知らない若者がいるという事実は、現代日本が根幹から失いつつある「日本人としての誇り」と「國體護持の至情」の喪失を如実に物語っている。清水博士は、「占領憲法は無効だ!」と叫び、中国の忠臣・屈原に倣い、熱海の断崖絶壁たる錦ヶ浦で壮絶な投身自決を遂げた英雄である。この壮絶な殉死は、単なる死ではない。それは、日本人としての誇りを失わず、「忠君愛国」の至情を貫かれた、まさに勇気ある国士の魂の発露であった。

博士の名のとおり、その生涯は「澄んだ清い水」の如く、その「赤心」には一点の曇りもなかった。

帝國憲法に殉じた文人の軌跡

清水博士は、明治元年(1868年)に金沢市で生を受け、東京帝国大学法科を卒業後、学習院大学教授を経て、行政裁判所長官、枢密院顧問官を歴任された。大正天皇、昭和天皇への御進講を賜るなど、宮中にも深く関わり、敗戦後には最後の枢密院議長に任ぜられた、まごうことなき憲法学の泰斗である。

博士が昭和八年に著された『逐條帝國憲法講義』(松華堂)は、その後の帝國憲法研究における基本文献の一つであり、現行憲法無効論者としての理論的出発点となった聖典とも言うべきものである。その学術的功績以上に、博士の「赤心」が滲み出るこの書は、後の世代にも大きな影響を与えている。

しかし、その輝かしい経歴の終着点は、栄光ではなく、殉死という道であった。昭和二十二年九月二十五日、博士は熱海・錦ヶ浦の断崖から身を投げた。その遺書「自決ノ辞」には、その決意が切々と綴られている。

自決ノ辞 新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元枢密院議長 八十翁 清水澄 法學博士 昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム

「小生微力ニシテ之ガ對策ナシ」と無念の思いを抱きつつ、國體を護持し、天皇陛下の御在位を幽界より祈願せんと決意されたのである。ここに、敗戦後の変節学者や保身学者が多い中で、ただ一人、正統憲法である帝國憲法に殉死された文人の壮絶な姿がある。その死は、武人の殉死にも勝るとも劣らない、熱き忠誠の証左である。

慟哭とともに受け継がれる「声なき声」

時が移り、その清水博士の顕彰碑の前で、再び壮絶な事態が発生した。平成の御代に金沢大学4回生の杉田智(さとし)君が「切腹」を遂げたのである。みぞれ降る石碑の前にあおむけに斃れていたと聞くは、ただただ悲しい。

彼がその若き命を賭して訴えたかったことは、清水博士が危惧されたことと軌を一にしている。「今の憲法では日本は滅びてしまう」「今の皇室典範ではご皇室は守れない」という、世に届かぬ「声なき声」を、その身をもって叫びたかったに違いない。

なぜ、まだ訴える方法はあったにもかかわらず、死を急がれたのか。宮司は、その慟哭の悔しさに涙にあふれ、若者の死を悼む。22歳という、喜びも悲しみもまだ知らぬ青葉半ばで散るは、あまりにも悲しく、残された母上の無念を思えば、耐え難き思いがある。しかし、国を憂い散るこそ道と覚悟し、「憲法無効」を叫びて散華された君の志は、決して忘れてはならない。

現行憲法無効論の復権と真の独立

清水博士の殉死は、乃木将軍の殉死が広く心を尊ばれた時代にあったのに対し、それを疎む世相の中で行われた。それゆえに、この偉大な事実を当時の憲法学者の大半が後世に伝えるどころか、むしろ積極的に抹殺しようとしてきた。それは、博士の殉死が、変節し保身に走った輩にとって、自己の立場を維持するに不都合であったからに他ならない。乃木神社が建立されている一方で、帝國憲法に殉じた清水博士を祀る「清水澄神社」が一つもないという現実は、この不都合な真実を象徴している。

しかし、その志は途絶えていない。

現行憲法をマッカーサー・コンスティチューションに過ぎないとして終始一貫して無効論を主張されたジョージ・L・ウエスト博士は、来日された際、現行憲法無効論を日本において定着させるというご神意に基づいた目的を明言された。そして、清水博士のご遺志は弁護士である同志に引き継がれていると述べ、安心して帰国できると話されたという。

その信念を引き継ぎ、石川護国神社の清水澄博士顕彰碑の前で、現行憲法無効宣言運動を生涯かけて推進し続けることの決意を新たにするのである。

東京裁判の無効性や近現代史の再評価は、近年少しずつ議論されるようになった。しかし、GHQの占領政策の二大方針であった「東京裁判の断行」と「現行憲法の制定」のうち、一方のみを議論して他方を議論しないというこの不均衡こそ、我が国が未だに占領政策から完全に脱却できていない証左である。現行憲法の無効性を主張しない者は、いかなる弁解をしようとも、反日思想に毒されていることは明らかであると断じざるを得ない。

今こそ、我々日本国民は、清水澄博士、そして若き杉田君がその命をもって訴えた「声なき声」を胸に刻み、我が国の真の独立のために、現行憲法無効宣言運動を一丸となって展開すべき時が来たのである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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