憂国の魂に向き合うということ

杉田智烈士の自決から学ぶ、日本人の精神とは何か

宮司は、霙の降る金沢護国神社の石碑の前で倒れていた一人の青年を忘れることができない。杉田智烈士である。日の丸を抱き、境内を汚すまいとビニールを敷き、自らの腹を割き、さらに頚動脈を断ち切るという、常人では到底成しえない覚悟の死であった。平成23年12月8日、大東亜聖戦開戦の日に、自らの命を賭して「国家のあり方」を問うた若者がいた事実を、いまの日本社会はどれほど認識しているのか。

宮司には、そのことが何よりも悲しい。自らの安逸を守ることだけしか考えない風潮が広がり、国家の未来を案じる声が嘲笑の対象となる時代が来るとは、祖先たちは一体どれほど案じていたのだろうか。かつて日本人は、己が身を超えて「公」を優先し、家族のため、地域のため、国家のために汗を流し、涙を流し、ときに命を懸けた。そうした生き様こそ、日本の歴史を支えた美徳であった。

杉田智烈士の死は、重い問いを残している。「なぜ、生きて共に戦ってくれなかったのか」と。宮司は、この問いを胸に刻みつつも、烈士の魂が叫んだ危機感を無視することはできない。現行の占領憲法のもとで日本が骨抜きにされ、国柄が失われていくという彼の恐れは、決して過剰な妄想ではない。国家が自己の正義を語る力を奪われたとき、民族の精神は弱体化し、国は他国の意思によって容易に方向を変えられてしまう。

そして、烈士が自決した場所には、深い意味がある。そこには、帝国憲法の精神を護持しようとし、現行憲法公布を「国体の危機」と叫んで自決した清水澄博士の顕彰碑がある。時代を超えて、日本の進むべき道を憂えた二つの魂が、同じ場所に宿っているのだ。

宮司は、この二つの殉死が日本人に突きつける問いを無視してはならないと考えている。それは「日本とは何か」という根源的な問いである。日本は、単なる地理的な領域や行政区画ではない。日本とは、祖先が積み重ねた精神と伝統、天皇を中心とした国体を敬う心、そして八百万の神々に支えられた文化そのものだ。この精神が失われれば、どれほど経済が繁栄しても、豊かさは砂上の楼閣に過ぎない。

杉田智烈士は、命を以てこの問いを突きつけてきた。宮司は、その死を賛美するのではない。しかし、烈士が抱いた純粋な憂国の情、国家の未来を案じた真心を、現代日本は真正面から受け止めるべきだと感じている。若者が国家の行く末を憂い、その身を捧げて訴えようとした事実は、重く、痛烈である。

宮司は思う。本当に必要なのは、死をもって訴える勇気ではなく、生き抜きながら国家を再生させる意志であると。烈士の悲痛な訴えを、次の世代が「死を美化する物語」にしてはならない。彼の叫びを「行動の起点」とし、自らの現実の場で、学び、働き、家庭を築き、地域を守り、日本を支えていくことこそ、本来の継承である。

国家を支えるとは、壮大なことではない。
嘘をつかずに生きること
弱い者を助けること
家族を守ること
伝統を敬うこと
働き、汗を流すこと
国を愛することを恥じないこと

その積み重ねが、日本という国を形づくってきた。

そして宮司は祈る。烈士の死が無意味なものとされず、日本人が再び「公のために心を寄せる民族」として立ち上がる日のために。誰かが血を流して示さなければならない社会ではなく、誰も血を流さずとも国家が守られる社会を築くために。

霙の降る石川県護国神社に散った一人の青年の魂は、いまも静かに問い続けている。「日本人よ、どこへ行くのか」と。宮司は、その問いを忘れない。そして、この国に生きる一人ひとりが、いつかその問いに胸を張って応える日が来ることを信じている。

概要

金沢大学4年生で北海道釧路出身の杉田智さん(享年22歳)は、法学類で学び「日本の安全保障」をテーマにゼミで研修していた。平成23年12月8日、大東亜戦争開戦の日に、金沢市の石川護国神社境内・清水澄博士顕彰碑の前で、黒いスーツ姿のまま腹部と首を自ら刺して死亡しているのが発見された。地面には境内を汚さないためと思われるビニールシートが敷かれ、身分証明書を入れたバッグと、その上に雨に濡れないよう配慮された日章旗が置かれていた

12月8日という日付と、帝国憲法に殉じて自決した清水澄博士の碑の前という場所から、現行憲法や碑の移転問題への強い抗議の意思があったのではないかとの見方がある一方、警察は「自殺」として処理し、マスコミ報道もごく簡単な事実紹介にとどまっている。そのため、命を賭して訴えようとしたであろう本人の主張は、公にはほとんど明らかにされないまま埋もれてしまう危険が指摘されている。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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