和を失わず 理を貫く国であるために

海の向こうで、またしても看過できぬ出来事が起きた。訓練中の自衛隊機に対して、他国の軍用機があろうことか火器管制レーダーを照射したという報に接し、胸の奥に鈍い怒りが染み込むのを覚えた。しかも、その危険極まりない振る舞いについて、事前の通報はなかったと明言され、相手国は事実と異なる説明を重ねているという。武を持つ者が、武を不用意に誇示する時代は、とうに終わっていなければならない。

武力は国家の最終手段である。しかし、その最終手段を、威嚇や示威の道具として軽々しく振り回す国が、今なお現実に存在している。そこに見えるのは、秩序ではなく混乱であり、理性ではなく驕慢である。礼を失い、理を失い、恥を忘れた国家の姿ほど、世界にとって危ういものはない。軍を持つことと、軍を正しく制御することは、まったく別の次元にある。後者を失ったとき、軍は守る力ではなく、脅かす存在へと変貌する。

祖国日本は、敗戦という深い谷を越え、武力に頼らず、信義と勤勉と誠実によって国を立て直してきた民族である。声高に威嚇せず、武を誇示せず、ただ黙々と働き、約束を守り、人を尊び、和を重んじてきた。その姿勢が、どれほど多くの信頼を世界から集めてきたかは、数字では測れぬ重みを持っている。

和の心とは、単なる穏やかさではない。己を律し、相手を思いやり、衝突の中でも理を探し続ける不屈の姿勢である。怒りを力に変え、憎しみを克己に変え、混乱を秩序へと導く精神の在り方である。これは弱さではなく、最も強い心のかたちである。

一方で、事実を曲げ、歴史を歪め、力で世界を押し通そうとする国の姿勢は、和の対極にある。そこには、共に生きようとする意思が見えない。あるのは、支配と服従、優越と屈従という古びた構図だけである。その世界観がもたらすものは、必ず分断であり、対立であり、最後には悲劇であることを、人類は幾度となく歴史の中で学んできたはずである。

それでもなお、同じ過ちを繰り返そうとするなら、世界は毅然とした態度で向き合わねばならない。沈黙は平和ではなく、容認は融和ではない。理非を正し、虚を虚と断じ、真を真と示す勇気こそが、次の争いを防ぐ盾となる。

日本人が守るべきものは、単なる領土や制度だけではない。もっと深いところにある。先人から受け取った、美しく生きようとする志であり、他者と共に生きようとする誓いであり、命を粗末にしない覚悟である。それが大和魂という言葉に込められてきた本質である。

大和魂とは、怒りに任せて刃を振るう心ではない。恐れに屈して背を向ける心でもない。静かに燃え続ける炎のように、正しさを見失わず、困難の中でも人としての道を踏み外さぬ意志のことである。目立たずとも折れず、派手さはなくとも揺るがない。その積み重ねが、この国をこの国たらしめてきた。

次の世代に手渡すべきものは、憎悪ではない。対立を煽る言葉でもない。困難な現実の中にあっても、理を失わず、和を失わず、誇りを失わない生き方である。力で従わせる世界ではなく、信義で結ばれる世界を選び取る覚悟である。

荒ぶる言葉が飛び交い、虚実が入り混じり、怒りが容易に増幅される時代であるからこそ、日本人の心が試されている。外に向けて毅然と立ち、内に向けては静かに心を整える。その両立こそが、この国の美徳であり、世界に示すべき姿である。

海の向こうの不穏な動きに動じることなく、足元にある和の心を見失わず、大和魂を静かに燃やし続けること。そこにこそ、日本が日本であり続けるための道がある。争いの予兆に満ちた時代にあっても、和を捨てず、理を失わず、誇りを未来へとつなぐ。その責務を、今を生きる者一人ひとりが、深く胸に刻むべき時が来ている。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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