東山魁夷の絵が教えてくれるもの

宮司は、東山魁夷画伯と横山大観画伯の絵に触れると、心の奥底まで澄み渡る感覚を覚える。とりわけ魁夷の絵には、静かでありながら深い余韻があり、自然を慈しむ者だけが描き得る繊細な気配が宿っている。画面に向き合うだけで、雑念が払われ、呼吸が整い、心が清らかさを取り戻す。そこには日本の自然観そのものが凝縮されているように感じられる。
魁夷は横浜に生まれ、神戸で育った。父の奔放な性質に悩む母を喜ばせようと、幼い頃から「大きくなったら偉い人になる」と心に誓っていたという。この純粋な思いは、魁夷の作品すべてに流れる優しさの源であろう。自然に恵まれた環境で育った彼は、やがて画家への憧れを抑えきれなくなり、父の反対を説得して東京美術学校へ進学する。実家の困窮に際しては自ら学費を賄い、卒業後は夢であったドイツ留学も自らの力で実現させている。
人生は順調ではなかった。友人が次々と評価される中で、魁夷の作品だけは陽の目を見ず、焦りと迷いの中で日々を過ごした。そのさなかに訪れたのが戦争である。召集された魁夷は、死を覚悟せざるを得ない苛酷な訓練の合間に熊本城を走らされた。その時に目にした風景が、彼の魂を激しく揺さぶった。死を目前にした瞬間、初めて自分が守りたいと思う美が見えたのである。なぜこれを描こうとしなかったのか。生きる望みさえ見失ったその時にこそ、彼の目は真の自然の息吹を捉え始めた。
さらに追い打ちをかけるように、兄、父、母、弟と、次々に肉親を失う悲劇が彼を襲う。家族をすべて喪った孤独の中で、魁夷は再び絵筆を手にする。諦観とも呼べる境地で描かれた作品が、後に高い評価を受ける「残照」である。絶望の暗闇を抜けた者だけが見いだせる静かな光が、そこには宿っている。
魁夷の雅号には、若き日の反発心と、新たな時代を切り拓こうとする志が重ねられているとされる。横浜と神戸という二つの港町で育まれた感性が、東山という優雅な響きと、魁夷の夷という荒々しさを併せ持つ名に込められた。その背景には、古来より海の民と深くつながる夷の精神が息づいているのかもしれない。新しい日本画を創る魁夷の誓いが、そこに秘められている。
宮司は魁夷の生涯を振り返るたびに、日本人が失ってはならない精神の芯を思い起こす。美とはただ鑑賞するものではなく、苦難の渦中で初めてその深さに気づくものである。人は順境よりも逆境の中で、本当の目を開く。魁夷の絵が静謐であるのは、生や死、喜びや悲しみのすべてを己の内に沈め、それを自然の姿と重ね合わせたからであろう。
自然を見つめることは、自分を見つめることと同じである。雑音を退け、心を鎮めて自然に身をゆだねるとき、人は謙虚さを取り戻し、己の居場所を知る。日本人はこの営みを古来より続けてきた。四季の移ろいに感謝し、山や水に命の気配を感じ、自然とともにあることを誇りとしてきた。大和魂は、この自然観の中で育まれてきた精神である。
魁夷の絵は、まさに大和魂の一つの形である。声高ではなく、無理に主張するでもなく、ただ静かに、ただ真摯に自然と向き合う。そこには日本人特有の奥ゆかしさと、内なる強さがある。次の世代に伝えるべきものは、この精神にほかならない。栄光や名誉より、謙虚さと誠実さを選ぶ心である。
宮司は思う。
魁夷の絵に魅了されるのは、美しさを超えて、人としての正しい姿を思い出させてくれるからである。
苦しみの底にあっても自然を愛し、全てあるがままを受け入れ、そこから静かな光を見いだす心。
これこそが、日本人の持つ最も美しい力なのだと。
現代は情報が溢れ、心が落ち着く暇もない時代である。だからこそ、魁夷の絵の前で立ち止まり、心を澄ませ、自分の内側にある本当の声に耳を傾ける時間が必要だ。そこからまた、一歩の道が見えてくる。
魁夷が歩いた苦難の道は、決して特別なものではない。
人は皆、それぞれの苦難を抱えながら、それでも前へ進む。
その歩みを支えるのは、自然に学び、心を磨き続ける大和魂である。
魁夷の絵は、その魂を静かに照らす灯となっている。

東山魁夷について
東山魁夷は、日本の風景画を代表する日本画家で、1908年に横浜に生まれ、幼少期を神戸で過ごした。自然に親しんだ少年時代を経て東京美術学校に進み、日本画を本格的に学ぶ。卒業後はドイツへ留学し、西洋の美術にも触れたことで、日本画の伝統と西洋の構図感覚を融合した独自の画風を築いた。
戦争や家族の死など数多くの苦難を経験したが、その深い喪失感と自然へのまなざしが後の代表作の源となった。戦後に発表した「残照」や「道」は、静けさの中に深い精神性を宿し、多くの人々に感動を与えた。
のちに文化勲章を受章し、皇居や唐招提寺の壁画も手がけるなど、日本文化の象徴的な存在として活動した。魁夷の絵は、派手さはないが、静かで澄んだ世界を描き、日本人の心にある自然への畏敬や安らぎを呼び起こす。
東山魁夷は、生涯を通して自然と向き合い、心の静けさを求め続けた画家であった。彼の作品は、今も見る人の心を整え、深い癒しと気づきを与えてくれる。
