木鶏のごとく立つ。混沌の時代に磨く日本人の胆と志

木鶏(もくけい) 荘子

紀省子という闘鶏飼いの名人が、王の命を受け、一羽の闘鶏を鍛えることになった。

十日ほど経った頃、王が様子を尋ねると、紀省子は「まだです。今は殺気立ち、敵を求めて気ばかりが外に向いています」と答えた。

さらに十日後、再び王が問うと、「まだです。他の鶏の鳴き声や気配にすぐ反応し、闘志をむき出しにします」と言う。

また十日後には、「まだです。他の鶏の姿を見ると、にらみつけ、いきり立っています」と答えた。
さらに十日が過ぎ、王が再び尋ねると、紀省子はこう答えた。

「もうよろしいでしょう。他の鶏がそばでどれほど鳴き、挑んでも、まったく動じません。まるで木彫りの鶏のようです。これは徳が十分に備わった証です。

この境地に達すれば、どんな鶏も相手になりません。姿を見ただけで、向こうから退いていくでしょう」

令和の時代は、情報が氾濫し、声の大きさが力と誤認されやすい時代である。主張は即座に拡散され、怒りや恐怖は煽られ、競い合うように言葉が投げつけられる。しかし、その騒音の中で、真に揺るがぬ人物はどれほど存在しているだろうか。宮司は、この時代だからこそ、荘子が語った「木鶏」の教えに、改めて目を向ける必要があると考えている。

紀省子が育てた闘鶏は、最初から強かったわけではない。敵を求め、気を張り、外の刺激に即座に反応するうちは、真の強さには至らなかった。鳴き声に動じず、姿に反応せず、挑発に心を乱されなくなったとき、初めて木彫りの鶏のような静けさを帯びた。そのとき、すでに勝負はついていたのである。相手は戦う前に退いた。ここに示されているのは、外に向かって力を誇示する強さではない。内に満ちた徳が、自然と周囲を制する境地である。

宮司は、この木鶏の姿こそ、日本人が本来目指してきた人物像であると受け止めている。競わず、てらわず、落ち着きを失わず、己を静かに見つめ続ける。その姿勢は、決して弱さではない。むしろ、余計な動きを削ぎ落とし、胆を定め、志を深く据えた者だけが到達できる境地である。

現代社会では、競争心が美徳のように扱われがちである。しかし、無用な競争は心を荒らし、視線を外へ外へと向けさせる。宮司は、他者と比べ続ける生き方が、人の精神をどれほど消耗させるかを憂えている。自分を実以上に見せようとする振る舞いも同様である。虚飾は一時的に人の目を引くが、やがて必ず内側の空虚を露呈させる。

落ち着きのない視線もまた、人物の浅さを映す。常に周囲を気にし、反応を探し、評価を恐れる姿は、内に軸が据わっていない証でもある。木鶏が示す静けさとは、何も感じないことではない。すべてを感じ取ったうえで、なお動じない心の在り方である。

木鶏に近づくための修行として、宮司は不妄語を何より重く置く。言葉は人格そのものであり、いい加減な言葉は精神を蝕む。礼を欠いた言葉、虚飾に満ちた言葉、場当たり的な言い逃れは、本人の胆を削り、信を失わせる。一度決めたことを守らず、都合によって言葉を変える姿勢は、人物を決定的に損なう。

媚びる言葉も同じである。相手の顔色をうかがい、己の立場を守るためだけに発せられる言葉は、国家においても個人においても、尊厳を失わせる。宮司は、外からの圧力に怯え、必要以上に身を低くする姿勢が、日本人の精神をどれほど歪めてきたかを見据えている。恐れから発せられる言葉は、決して国を守らない。

日本には、言葉少なくとも背筋を正し、静かに立ち続けてきた歴史がある。武を誇示することなく、騒がず、しかし一歩も退かぬ姿勢を尊んできた精神がある。それは感情的な排他性ではなく、自らの在り方に対する揺るぎない信念に支えられていた。

「志は気の師なり」とは、まさにこのことを示している。志が定まれば、気は乱れない。胆が養われれば、外の騒音に心は奪われない。宮司は、人物を磨くとは、技術や知識を積み上げる以前に、この内なる秩序を整えることだと確信している。

令和の混沌は、外敵だけによって生じているのではない。内側の軸が弱まったとき、社会は容易に揺さぶられる。だからこそ、今求められているのは、声を荒らげる者ではなく、木鶏のごとく静かに立つ人物である。挑発に乗らず、恐れに支配されず、己の言葉と責任を最後まで引き受ける存在である。

宮司は、日本の未来は制度や力関係によってのみ決まるものではないと考えている。一人ひとりが木鶏に近づこうと努める積み重ねが、国の風格を形づくる。静かで、重く、動じない精神が次代へと受け渡されるとき、日本は外から何を向けられようとも、揺るがぬ姿を保ち続けるだろう。

木鶏とは、戦わずして勝つ境地である。それは逃げでも妥協でもない。内に徳を満たし、言葉を慎み、志を高く据えた者だけが到達できる、最も厳しく、最も誇り高い道なのである。

人物を磨き、木鶏に近づくために

第一に「競わず」。
むやみに余計な競争心をかき立てないこと。

第二に「てらわず」。
自分を実以上に見せようとしないこと。

第三に「瞳を動かさず」。
常に周囲を気にしてキョロキョロ見回さないこと。落ち着きのなさは、人物の浅さを映す。

第四に「静かなること木鶏の如し」。
木彫りの鶏のように静かに己を見つめること。気は充実し、自信が内側から満ち、徳が自然と備わっていく。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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