試練は人を鍛える慈しみ

人生に降りかかる出来事を、人はしばしば試練と呼ぶ。だが、その正体を鞭のようなものと受け取るか、鍛錬のために差し出された手と受け取るかで、その後の歩みは大きく変わる。宮司は、若き日に記した言葉を振り返るたび、試練とは裁きではなく、育てるための温もりに近いものだと感じてきた。
山道を思い浮かべれば分かりやすい。なだらかな舗道だけを歩いてきた足は、少しの石ころでよろめく。しかし、ぬかるみや急坂を越えてきた足は、多少の雨風では崩れない。人生も同じである。失敗や困難がないことが望ましいのではない。揺さぶられながらも、芯を失わずに立ち続ける力が育つかどうかが問われている。
世の中は効率や快適さを尊び、凹凸を削り取ろうとする。しかし、削られ尽くした器は薄く、少しの衝撃で欠けてしまう。むしろ、でこぼこを残した器の方が、手に馴染み、温かい。人生の味わいもまた、平坦さではなく、起伏の中で深まっていく。
荒れた現場を幾度もくぐり抜けた者の目は、些細な騒ぎに泳がない。胆は、知識からではなく、場数から育つ。大病に直面し、生と死の境を覗いた者は、日々の光や風を無駄にしなくなる。覚悟が定まると、人生は恐れる対象ではなく、味わう対象へと変わる。
さらに深い苦しみや悲しみは、人を内側へと導く。外に答えを探していた視線が、静かに自分自身へと戻ってくる。そのとき初めて、人は自らの存在を丁寧に扱えるようになる。神に近づくとは、遠くへ昇ることではない。己の足元を正しく見つめ、日々を粗末にしない姿勢を得ることである。
現代は情報が洪水のように押し寄せ、心が散りやすい時代だ。だからこそ、試練の意味を取り違えないことが大切になる。困難を呪いとして抱え込めば、心は閉じる。慈しみとして受け取れば、内側に静かな力が積み重なっていく。
宮司が長年感じてきたのは、人は壊されるために試されるのではないということだ。折れそうなところに、しなやかさを授けるために、人生は揺らす。揺らぎの中で互いを思いやり、和を保とうとする意志が育つとき、社会は静かに強くなる。
朝日が毎日同じように昇るようでいて、同じ日は一日もない。その一日一日を、与えられた課題ごと抱きしめる姿勢こそが、日本人が古くから磨いてきた心の在り方であろう。試練を越えた先に残るのは、声高な強さではなく、静かで折れにくい強さである。それは今の時代にこそ、最も必要とされている光である。
