森に還る羅針盤。令和の日本が進むべき航路

森に入ると、空気の重みが変わる。木々の呼吸が静かに重なり、足もとの土は、幾千年もの時間を抱いている。山は声高に語らず、滝は言葉を持たず、風は形を示さない。だが、そのすべてが人の生を包み、導いてきた。日本の営みは、もともと自然の懐に身を置くことで整えられてきた歴史である。人が自然を使うのではなく、自然に生かされるという感覚が、暮らしの底流に流れていた。

宮司は、神道の根に「結び」の思想を見る。結びとは、離れたものを無理に縛ることではない。山と里、天と地、人と人、生者と先祖、そして今と未来を、しなやかに結び直す働きである。結びの力が失われると、社会はほどけ、心は孤立し、自然は単なる資源へと変わる。令和の時代に求められているのは、新しい制度や技術だけではない。ほどけかけた結び目を、もう一度、人の手で結び直す覚悟である。

言葉は、その結び目の芯となる。大和言葉は、硬さではなく温度を持つ。命を包む毛布のように、痛みを和らげ、迷いを照らす。世界が速さと効率を競うほど、柔らかな言葉の価値は高まる。争いを煽る刃のような言葉ではなく、互いの心に余白を残す言葉が、未来の土台となる。言葉が荒れると、心の土壌は痩せる。言葉が整えば、心の畑は再び実りを迎える。

穢れとは、汚れではない。木が枯れ、気が枯れること。森が削られ、息が詰まること。自然の霊気が薄れると、人の内にも乾きが広がる。近代は便利さと引き換えに、神域を踏み越えてきた。山を切り、森を均し、静かに棲んでいた命の居場所を奪った。その歪みは、里へ下りる獣の姿となって現れ、人の心の荒廃となって跳ね返る。自然との距離を詰め過ぎた結果、自然からの距離を失ったのである。

祭は、失われた気配を呼び戻す装置である。祭とは、境を越えて近づく営み。日常の段差を一段上がり、目に見えぬものに耳を澄ます時間である。産湯、宮参り、節目の祈り、別れの湯かんに至るまで、人の一生は、清めと結び直しの連続であった。祭りは娯楽ではない。人が本来の調律へ戻るための、社会の呼吸である。呼吸が乱れれば、身体が弱る。祭が衰えれば、共同体は息切れする。

令和は、問いの時代である。何を守り、何を改め、何を次代へ手渡すのか。技術は帆、理念は羅針盤。帆だけを広げれば、風に翻弄される。羅針盤だけでは、海を渡れない。人と自然の共生は、理想ではなく航路である。森を守ることは、水を守ること。水を守ることは、田を守ること。田を守ることは、食を守ること。食を守ることは、命を守ること。一本の木の影が、遠い未来の食卓に差す。

宮司は、国家の進路にも同じ構図を見る。経済の帆を張り、国防の舵を取り、文化の羅針盤で針路を定める。外の潮流に抗うのではなく、内なる軸を確かめる。外からの価値観に飲み込まれぬよう、内側の根を深く張る。根が深ければ、嵐に耐える。根が浅ければ、風向きに倒れる。

教育とは、知識の注入ではない。心の土を耕し、感受の苗を植える営みである。自然に触れ、言葉に触れ、祭に触れ、先人の背に触れる。触れる回数が増えるほど、人は孤独から遠ざかる。孤独は人を尖らせる。つながりは人を丸くする。丸みは弱さではない。衝突を受け止め、跳ね返さずに流す強さである。

宮司は、未来の日本を、荒波を進む帆船になぞらえる。船体は歴史、帆は創意、羅針盤は精神、乗組員は国民である。嵐は避けられない。だが、互いの役割を尊び、結び目を確かめ合えば、船は沈まない。進路を定めるのは、遠い星の位置である。星とは、目に見えぬ価値の象徴であり、自然への畏れ、言葉への敬意、祭への回帰、先祖への感謝である。

最後に、米を大切にすることの意味を重ねたい。米を守ることは、山を守ること。山を守ることは、森を守ること。森を守ることは、水と土を守ること。守るという行為は、未来へ手渡すという誓いである。令和の世において、進歩の名のもとに切り捨てられがちな結びを、もう一度、丁寧に結び直す。その営みこそが、日本の背骨を立て直し、次代の子らに、揺るがぬ足場を残す道である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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