言葉の刃と国家の品格

報道の現場において、「支持率を下げてやる」という言葉が飛び交ったという。この一言に、日本の報道の病巣が象徴されているように思う。民主主義の根幹は言論の自由にある。しかし、自由とは放縦ではない。公正と節度を伴わぬ言葉は、国を蝕む毒となる。
報道は本来、権力の監視者であると同時に、国家と国民を結ぶ架け橋でなければならない。だが、いまその橋は崩れかけている。政治家を貶めることが目的化し、真実よりも印象が優先される。こうした風潮の中で「支持率を下げてやる」という言葉が笑いと共に出たとすれば、それは職業倫理の堕落である。
宮司は思う。政治家も報道も、共にこの国の未来を形づくる公の担い手である。たとえ立場が異なっても、「日本を良くしたい」という一点で一致していなければならない。そこに敵対心ではなく、敬意が必要だ。報道が政治家を憎悪の対象とし、政治家が報道を敵視する社会に、成熟した民主主義は育たない。
この問題の本質は「誰が発言したか」ではない。「なぜ、そのような心が生まれたか」である。国家への敬意、職業への誇り、公への感覚が失われたとき、人は軽々しく他人の名誉を踏みにじる。笑いながら誰かを貶めることに慣れた社会では、やがて自らも同じ刃で傷つくことになる。
かつての日本人は、言葉に魂を宿すと信じた。言葉を慎むことは、己を律することでもあった。神前で嘘をつかぬこと、礼を失わぬこと、これが日本人の美徳だった。報道の自由は尊い。しかし、それは「真実を伝える責任」と一対でなければならない。
高市早苗氏のように信念を貫く政治家が攻撃の対象となるのは、現代日本が「信念を恐れる時代」に陥っている証左かもしれない。信念を持つ者は、時に不器用であり、誤解を受ける。だが、信念なき者が国家を導くことは決してできない。
この国の再生は、言葉の再生から始まる。報道が正義の名の下に他者を裁くのではなく、真実を照らす光となること。政治家が迎合ではなく信念を語ること。そして国民一人ひとりが、己の言葉と心に責任を持つこと。それが日本の「気」を立て直す道である。
今こそ、メディアも政治も国民も、自らを省みるべき時である。公に仕えるとは何か。言葉の力をどう用いるべきか。その問いに正面から向き合うことが、この国の品格を取り戻す第一歩となる。
