日本再生の道標「山田方谷」いまこそ学ぶべき誠の財政と大和魂

日本再生の道は、過去の英傑の精神を掘り起こし、未来へと橋渡しするところに見いだされる。この国が長い歳月をかけて育んできた健全なる精神は、決して抽象的な観念ではなく、実際に生きた人々の血の通う努力と、天を仰いで己をただす慎みの心によって形づくられた。山田方谷は、その象徴となる人物である。

宮司が備中高梁の地を初めて訪れたとき、臥牛山にそびえる松山城の姿は、まるで山全体が過去の矜持を守り続けているようであった。満開の桜や桃の花の色彩が、方谷の歩んだ人生を思い起こさせる。華やかでありながら、決して驕らず、ただ誠を中心に据えて歩む姿勢を示すようであった。

方谷が藩政改革に取り組んだ当時、備中松山藩は十万両もの負債を抱え、衰亡寸前にあった。数字だけを見れば絶望の淵にあるとさえ言える状況であったが、方谷はそこで膝を折らない。財政の根幹は金銀の計算にあるのではなく、人々の暮らしに息づく活力と、正しき道を貫く精神にあると信じていた。産業を興し、贈賄を戒め、浪費を改め、学問を興し、人を育てることに力を尽くしたのもそのためである。

宮司は、方谷の「事の外に立ちて事の内に屈せず」という言葉に、日本の未来を切り開く鍵があると考えている。小手先の効率や一時的な利益に引きずられるのではなく、大局を見据え、道理を見失わず、義を先に立てる姿勢こそ国を立て直す柱となる。

古来、日本人は天地自然を畏れ、調和と誠を尊んできた。自己の利益のみに囚われるのではなく、家族を思い、村を思い、郷土を思い、国の行く末を思うことで、心の根が養われていった。方谷の改革は、この古き良き精神が時代の危機と結びつき、実践として結実した稀有な例である。

また、方谷が閑谷学校の再興に尽くした背景には、教育こそ国家の柱であるという揺るぎない信念があった。教えを受けた若者たちが、家を整え、郷土を支え、国を支える人材となっていく。その循環が成り立つ時、国は安泰であり、人々の暮らしは希望を取り戻す。今日の日本が抱える課題も、根は同じところにある。教育が人の心を立て直し、誠と責任を取り戻すことによって、未来は拓かれる。

宮司は思う。方谷が生涯を通して大切にした誠意の精神は、現代日本が忘れかけている「大和魂」の本質そのものであると。激しく叫ぶことでも、他者を押しのけることでもない。静かに自らを律し、正しいと思う道に心を据えることで、周りに良き影響を与え、社会を少しずつ変えていく。

この国が再び光を取り戻すためには、子供たちにこそ、この精神を伝えていかねばならない。歴史の教科書の片隅で終わらせてはならない人物がいることを、家庭の大人たちが改めて思い起こす必要がある。お父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんが、子や孫に語りかけることで、大和魂は静かに、しかし確実に未来へ受け継がれる。

山田方谷の生涯は、どれほど困難な時代が訪れようとも、誠を柱に据えた人は必ず道を開くという証である。この不安の時代にあって、まさに日本人が学ぶべきはその精神であり、その実践であると宮司は確信している。

日本の未来は、過去の英傑たちの精神を尊び、そこに今を生きる私たちの覚悟を重ねることで再び輝きを取り戻す。方谷の生涯はその道標であり、子供たちに伝えるべき宝である。

山田方谷について

山田方谷は1805年に備中松山藩に生まれ、陽明学を基礎に藩政改革を断行した思想家であり実務家である。十万両もの負債を抱えていた藩を再建し、産業振興や贈賄禁止、学問所の設立など幅広い改革を成し遂げた。改革の根幹には「誠意中心主義」があり、義を明らかにして利に惑わされぬ姿勢を貫いたことで知られる。明治維新後は大蔵大臣への就任を固辞し、再興された閑谷学校などで教育に専念した。藩政の再建のみならず、人材の育成に力を注ぎ、その思想と行いは今日まで大きな評価を受けている。

\ 【PR】Amazon /

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

目次