抜かぬ剣の教え。居合術が伝える日本人の精神

日本武道の中でも、居合術はとりわけ日本人の精神性を色濃く映し出す武のかたちである。剣を抜く以前、すでに勝負は始まっている。鞘に納められた刀は、静寂の象徴であり、同時に覚悟の象徴でもある。その静けさの中に心を澄まし、瞬時に決断し、迷いなく抜きつける。この一連の所作に、日本人が古来より大切にしてきた心の在り方が凝縮されている。
居合の源流は、林崎甚助重信に遡る。親の仇を討つという一念を胸に、林崎明神に参籠し、神前で己の心と向き合い続けた末に、鞘の内にこそ真の剣があることを悟ったと伝えられている。この逸話は、力や技の巧拙を超え、心の在り方が武を成すという、日本武道の本質を雄弁に物語っている。外に振りかざす強さではなく、内に宿す覚悟こそが、真の武であるという教えである。
江戸の世において、居合は単なる戦いの技ではなく、生き方そのものとして武士の精神を支えてきた。日常の中で刀を帯びる者にとって、抜刀は常に命を懸けた決断であり、軽々しく振るわれるものではなかった。だからこそ、居合は自制と節度を尊び、無用な争いを戒める武道として磨かれてきたのである。抜かずに済ませる心、しかし抜くべき時には一瞬も迷わぬ心。この相反する要素を併せ持つところに、日本人特有の精神文化がある。
しかし、その尊い伝統は近代に入り、大きな試練に晒された。廃刀令によって刀は日常から姿を消し、さらに戦後の武道禁止により、多くの流派が歴史の闇に消えた。技が途絶えたという事実以上に、精神の継承が断ち切られたことは、日本人にとって大きな損失であったと言える。それでもなお、幾人もの先人が困難な時代を耐え抜き、密やかに、しかし確実に武の灯を守り続けた。
無双直伝英信流もまた、そうした努力の積み重ねによって今日まで伝えられてきた流派である。形を守ることは目的ではない。形を通して、心を正し、己を見つめ、天地自然と調和する生き方を学ぶことにこそ意味がある。居合の稽古において、敵は常に外にいるとは限らない。むしろ、慢心、恐れ、怠惰といった内なる敵こそが、最も斬るべき存在である。
現代社会は便利さと速さを追い求め、立ち止まって心を整える時間を失いつつある。そのような時代だからこそ、居合が持つ静の力は、今を生きる日本人にとって必要不可欠な指針となる。刀を抜く前の一瞬の静寂は、判断の重みと命の尊さを思い起こさせる。そこには、他者を敬い、自らを律し、責任を背負って生きるという、大和魂の原点がある。
宮司は、居合術が単なる古武術として保存されることを望まない。居合に込められた精神が、次代を担う若者の心に息づき、日本人としての誇りと覚悟を呼び覚ますことを願っている。武道とは、争いを生むためのものではなく、心を正し、世を安んじるための道である。その道を未来へと繋ぐことは、今を生きる者に課せられた責務であろう。
鞘の内に剣を収めつつ、いつでも抜ける覚悟を持つ。この姿勢こそが、日本人が長い歴史の中で培ってきた生の哲学である。居合術は、その哲学を身体と心に刻み込む、生きた教えである。大和魂は過去の言葉ではない。今ここから、未来へと受け渡されるべき、日本人の精神の核なのである。
