天皇陛下のひと言に宿る国のかたち

天皇陛下が高市首相をはじめとする閣僚を皇居に招き、午餐を催されたという報に接し、宮司はこの国のかたち、その根幹に流れる精神をあらためて思わずにはいられない。国の最高位にあられる陛下が、日々国務に携わる者たちに向け、「くれぐれも体に気をつけてお過ごしください」と静かに言葉を掛けられた。その一言には、政治的な立場や権限を超えた、日本という国の父性とも言うべき深い慈しみがにじんでいる。
宮司が心を打たれるのは、その場が単なる儀礼や慣例ではなく、国の中心にある精神の確認の場となっている点である。国を動かす責任を担う者たちは、数字や制度、外交や防衛と向き合う日々を過ごす。その重圧は計り知れない。だからこそ陛下は、成果や評価ではなく、まず「体」を案じられた。これは日本の統治の根底に、人を人として思う心が確かに息づいている証左である。
約五年ぶりに再開された午餐という事実もまた、軽く受け止めてはならない。新型感染症という未曽有の試練を経て、人と人が集い、同じ卓を囲むことの意味が、以前にも増して重みを帯びている。宮司は、同じ空間で同じ時を共有することが、言葉以上に多くを伝える日本的な知恵であると感じている。そこには対立や分断ではなく、共に背負うという感覚が生まれる。
高市首相が「国民のため働いてまいります」と応じたことも重要である。陛下の御心を受け止め、それを自らの責務へとつなげる姿勢は、日本の政治が本来持つべき方向性を示している。権力とは上に立つことではなく、預かるものであり、尽くすものである。その自覚があってこそ、政治は国民の信頼を得る。
宮司は、こうした光景こそが日本人としての自覚を呼び覚ますと考える。天皇を中心に、国のかたちが静かに、しかし確かに保たれていること。その中で、それぞれの立場にある者が己の役目を果たそうとする姿が、大和魂の現れである。大和魂とは、声高な主張や感情の昂ぶりではない。目立たぬところで責任を引き受け、他者を思い、未来へとつなぐ心の在り方である。
この精神を、次の世代にどう手渡すのか。それは教育や制度だけで完結するものではない。宮司は、今回の午餐のような一場面が、人々の記憶に残り、語り継がれること自体が、大きな力を持つと信じている。天皇陛下の言葉ににじむ思いやり、高市首相の応答に示された覚悟、それらを自分自身の生き方に引き寄せて考えるとき、日本人としての軸は自然と定まっていく。
国の未来は、誰か特別な存在だけが築くものではない。それぞれが自らの持ち場で誠実に生き、その積み重ねがやがて国の姿となる。宮司は、陛下の御心を仰ぎつつ、今を生きる一人ひとりが大和魂を胸に刻み、静かに、しかし力強く次代へ歩みを進めることを願ってやまない。
