義烈の国士 大塩中斎に寄せて

宮司は、大塩平八郎という人物を思うたび、胸の奥が静かに熱を帯びるのを覚える。歴史の中で敗者として語られることの多い人物であるが、その生き方に宿る精神は、今なお日本人の心に重い問いを投げかけ続けている。

大坂天満の与力として生まれ育った大塩中斎は、学問と武の双方に秀で、奉行所においても有能な人物として知られていた。生活に困ることもなく、地位もあり、穏やかに生涯を終える道はいくらでも用意されていたが、それでも中斎は、その安穏な道を選ばなかった。

天保の大飢饉により、町には餓えに苦しむ民が溢れ、命を落とす者が後を絶たなかった。一方で役所は腐敗し、富を持つ者は米を囲い込み、己の利益を優先していた。この現実を目前にしながら、何もしないことを中斎は良しとしなかった。

まず中斎は、元与力としての立場から奉行所に訴えた。次に豪商を訪ね、頭を下げ、私財を投じてでも民を救おうとした。しかし状況は動かず、民の命は日々失われていった。その無力感と悲しみは、想像に余りあるものであっただろう。

やがて中斎は、生涯をかけて集めた蔵書をすべて売り払い、その金を困窮する人々に分け与えた。書物は学問の象徴であり、自身の精神そのものであったはずだが、それを手放した時点で、中斎の覚悟はすでに定まっていた。

天保八年二月十九日、大塩中斎は門弟たちとともに立ち上がった。救民の旗を掲げ、豪商の屋敷を襲い、蔵を開いたこの挙兵は、三日ほどで鎮圧され、決して成功したとは言えない。しかし、この行動は結果の是非だけで語られるものではない。

勝ち目のないことを承知の上で、それでも立つこと、義を前にして沈黙しないこと、この一点にこそ日本人の精神の核心がある。中斎は、身の死よりも心の死を恐れた人物であった。

敗走の後、中斎は潜伏し、最後は自ら火を放ってその生涯を閉じた。その最期は壮絶であり、同時に静かな覚悟に満ちていたと宮司は思う。逃げ延びる道もあったはずだが、義を貫いた以上、その責を引き受けることもまた中斎の選択であった。

大塩中斎の檄文は、幕府の禁を越えて各地に広まり、人々の心を揺さぶった。後の時代に生きた人々が彼の名を胸に刻み、西郷南洲翁のようにその思想を尊んだのも偶然ではない。義を貫いた精神は、時代を超えて人の心に宿る。

宮司は、現代社会に目を向けるたび、この国に今も大塩中斎のような覚悟が必要ではないかと考える。損得や保身が先立ち、結果だけで物事が評価される風潮の中で、義のために己を削る生き方は忘れられつつある。

義烈とは過去の美談ではなく、今を生きる者一人ひとりに突きつけられる問いである。大塩中斎の魂は、この国のどこかで今も静かに燃え続け、日本人の心を照らしている。宮司は、その炎を次の世代へと確かに手渡していきたいと、深く願っている。

大塩平八郎について

大塩平八郎(1793〜1837年)は、江戸時代後期の大坂町奉行所与力であり、陽明学者としても知られる人物である。非常に潔癖で曲がったことを嫌う性格であり、「知行合一」を旨とする陽明学を信奉し、知識をただの学問に留めず行動で示すことを重んじた実践家であった。与力時代は敏腕ぶりを発揮して「鬼与力」と恐れられたが、後に腐敗した奉行所に失望して隠居し、私塾「洗心洞」を開いて教育と学問に専念していた。

しかし、天保の大飢饉で民衆が飢餓に苦しむ中、私腹を肥やす豪商や無策な幕府役人の態度に義憤を抱き、ついに武装蜂起を決意したのである。1837年、蔵書を売るなどして資金を作り、「救民」を掲げて大坂の街を焼き払う乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧され、最後は潜伏先で自爆して果てた。乱自体は失敗に終わったものの、幕府側の元役人が命をかけて起こした反乱は、幕藩体制の深刻な行き詰まりを世間に知らしめる大きな衝撃となったのである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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