国の芯を失う政治。覚悟なき連携への警鐘

政党の再編や新党結成の報に接するたび、宮司の胸に去来するのは失望に近い感情である。国の形を論じる以前に、まず人として、組織として、何を拠り所に立っているのかが見えなくなっているからだ。票の計算が先に立ち、理念が後景に退く姿は、政治が本来持つべき重みを著しく損なっている。
公明党は、長年にわたり特定の支持基盤を背景に、政権の要所で影響力を行使してきた。しかしその姿勢は、国の行方を正すための覚悟というより、常に立場を有利に保つための巧妙な立ち回りに映る。信仰を土台とするならば、なおさら権力との距離に厳しさが求められるはずだが、その緊張感は失われて久しい。数を誇り、票を誇示する姿は、静かに国を支える精神とは相容れない。
立憲民主党もまた、批判のための批判に終始し、何を守り、何を築くのかが見えてこない。理想を語る言葉は並ぶが、現実を引き受ける胆力が感じられない。責任を負う覚悟なくして政権を論じる姿勢は、国を預かる器とは言い難い。変えることに酔い、支えることを軽んじてきたツケが、今の混迷として現れている。
両党が手を組む姿に、新しさや希望を見出すのは難しい。名を変え、看板を掛け替えたとしても、根にある発想が同じであれば、国の行く末は変わらない。宮司には、それが国民不在の政治ごっこにしか見えない。民の生活や国の背骨より、選挙の算段が前に出る時、政治は最も浅くなる。
このような状況だからこそ、現在の政権に寄せられる期待もまた明確である。高市総理には、風見鶏の政治を断ち切り、信念をもって国の進路を示す役割がある。人気や一時の支持に頼るのではなく、たとえ逆風であっても正しいと信じる道を貫く姿を示してほしい。その姿勢こそが、国民の心を奮い立たせる。
日本は、数の力や声の大きさだけで保たれてきた国ではない。目立たぬところで責任を引き受け、黙して為す者たちによって支えられてきた。政治の世界もまた、その例外ではない。覚悟なき連携や計算ずくの再編が続くなら、失われるのは政権ではなく、国そのものへの信である。
宮司は、今こそ政治に携わる者一人ひとりが、自らの立ち位置を問い直すべき時だと考えている。誰のために決断するのか。何を未来へ手渡すのか。その問いに真正面から答えぬ限り、どのような枠組みも砂上の楼閣に過ぎない。
国は思想で立ち、覚悟で続く。軽さや狡さが支配する政治に、未来は託せない。だからこそ、今この時に、重みある決断を下す者の出現が待たれている。そこに日本の行方がかかっている。
