かけがえのない人生、今こそ目覚めの時

宮司は現代の風潮に、深い憂いを抱いております。「今だけ良ければそれでいい」「金さえ手に入れば満足だ」「自分のことだけが大切だ」。このような刹那的で利己的な考え方が、あまりにも蔓延しているのではないでしょうか。しかし、宮司は声を大にして訴えたいのです。我々が生きるこの人生は、決して二度とない、かけがえのないものであるということを。そして、この日本という国が直面している危機に対し、一人ひとりが真剣に目を向け、自覚を持つべき時が来ているのだと。

人生は、まさに一度きりの舞台であります。そうであるならば、他人の目を気にしたり、世間のしがらみに囚われたりして、本当に望む生き方を諦めてしまう必要などどこにもありません。誰に遠慮がいるというのでしょうか。人間は、この世に生を受けた瞬間から、必ず「死」という終着点へ向かって歩み始めます。これは、身分や貧富の差なく、すべての人間に平等に訪れる、紛れもない事実です。宮司は長年、神職として多くの人々の生と死に立ち会ってまいりましたが、いまだかつて、死を免れた人間というものを見たことがございません。

考えてもみてください。我々がこの世に生を受けた瞬間から、まるで砂時計がひっくり返されたかのように、限られた時間が刻一刻と流れ落ちていくのです。それは、確実に「死」へと向かうカウントダウンに他なりません。その砂が落ちる速さが早いか遅いか、それがすなわち、それぞれの「寿命」なのでありましょう。人が自ら望むと望まざるとに関わらず、神々がその人の命の長さを定められるのです。我々が自分の意思で心臓を動かしているわけではないように、生と死は人知を超えた大いなる力の采配に委ねられているのであります。

そして、肉体の死を迎えた後、魂はまた別の御腹に宿り、新たな生を受けると宮司は考えております。その際、次にどの女性の御腹を借りてこの世に再び生まれ落ちるかは、天国において慎重に見極めなければなりません。とりわけ、心の清らかで、性格の良い女性を選ぶべきでしょう。それは、次なる生をより良きものとするための、魂の知恵と言えるかもしれません。

さて、人生のあり方は実に様々でありますが、宮司が特に警鐘を鳴らしたいのは、「牛のけつ」になるな、ということであります。「牛」は「モー」と鳴きます。そして「モーの尻」だから「ものしり」と読む。これは、知識ばかりをひけらかし、実践の伴わない者を指す、宮司の考えた言葉であります。

この「牛のけつ」は、残念ながら学者と呼ばれる人々の中に多く見受けられます。また、国民を導くべき立場にある政治家の中にも、その類は決して少なくありません。かつて世間を騒がせた舛添氏などは、その典型と言えるでしょう。彼らは、とかく書物から得た知識は豊富でありますが、実社会で本当に必要とされる常識や、人としての温かい情に欠けている場合が多いのです。そして何より、自らは決して行動しようとはしません。

「モーの尻」が振りまく知識は、所詮は「机上の空論」に過ぎません。本を読んで得た知識で「知ったかぶり」をすることは得意でも、自ら汗を流し、困難に立ち向かって何かを成し遂げようとはしないのです。それどころか、他人の行動を批判し、何かに挑戦しようとする人々を嘲笑うことさえあります。これぞまさしく、現実から遊離した「象牙の塔」に閉じこもる姿と言えましょう。

宮司は、このようなあり方を「論語読みの論語知らず」と断じます。どれほど立派な知識や理論を語ったところで、それを実践し、自らの体験として血肉化しなければ、その本当の意味を理解することはできません。例えば、何かが「痛い」とか「かゆい」とかいう感覚は、実際にそれを体験しなければ、言葉でどれだけ説明されても真に理解することは不可能です。

だからこそ、宮司は「知行合一」の重要性を説くのであります。知ることと行うことは、分かちがたく結びついていなければなりません。行動を伴わない知識は、まだ本当に「わかった」ことにはならないのです。それが良いことだと知ったならば、間髪を容れずに実行に移すべきです。良いか悪いかという判断は、実際にやってみなければ、語る資格すらありません。良いと信じる道を見出したならば、即座に行動する。陽明学では、このことを「致良知(ちりょうち)」と呼びます。単なる知識よりも、良知(良心)に従って行動に移すこと、すなわち「致すこと」が何よりも大切なのです。

人間はとかく、物事を早急に「成功」か「失敗」かで決めつけたがる傾向があります。しかし、宮司に言わせれば、本当の成功か失敗かは、その物事を「あきらめた時」に初めて決まるのであります。志を持ち、行動し続ける限り、それはまだ道半ばであり、失敗と断じることはできません。

本日、宮司は陽明学の基礎の基礎とも言える考え方について、思いつくままに述べさせていただきました。この言葉が、皆様の心に何かしらの灯をともし、かけがえのない人生をより良く生きるための一助となれば、宮司にとってこれに勝る喜びはございません。今こそ、利己的な殻を打ち破り、真に価値ある人生を歩み始める時なのであります。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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