美しき日本を想う心

宮司は、どうしても好きになれないものがある。太陽光パネルと風力発電だ。なぜかといえば、それらが「日本の自然」を台無しにしていると感じているからである。
山に登ると、木々の緑が一面に広がり、季節の移ろいが静かに語りかけてくる。かつて、祖先たちが祈りを捧げてきたその聖域のような山の稜線に、黒く無機質な太陽光パネルが延々と並ぶ光景に、心が痛む。それはもう「山」ではなく、ただの電力装置の台座となってしまったように映る。
同じように、海を見渡せば、風車が波打ち際に立ち並び、かつての美しい水平線が機械の回転で途切れている。そこに広がっていたのは、風の匂いと塩の味がする、言葉にできない日本の原風景だったはずだ。
自然との調和を大切にしてきたこの国の姿が、見えなくなっていくことへの深い憂いがある。経済合理性、地球温暖化対策、カーボンニュートラルという美名のもとに、いったいどれほどの自然が失われたのか。果たしてそれは、未来の子どもたちに誇れる選択なのか、宮司は疑問を禁じ得ない。
さらに宮司が苦々しく思うのは、この再生エネルギーという名目の裏に潜む「楽して儲ける者たち」の存在である。補助金を得て土地を買い漁り、自然を切り開き、利益だけを持ち去って、災害リスクや環境破壊の責任は地域に押し付ける。その姿は、まるで古来の「山を荒らす魔物」のように見える。
日本人は本来、誠実で、勤勉で、質素で、真っすぐな気質を持っていたはずだ。汗を流し、地道に働き、正直であることを尊ぶ文化を育んできた。それが今や、派手な言葉や過激な発信で注目を集め、他人を見下すような論法で支持を集める風潮がある。宮司が堪えがたいと感じるのは、そうした人物が「現代の成功者」として称えられる時代の空気である。
たとえば、ホリエモンと呼ばれる人物は、過去に数々のビジネスで話題をさらい、人々を熱狂させた。しかしその背後にあるのは、物事の本質よりも効率や利益を優先し、人間の営みを軽視する姿勢ではなかったか。橋下氏にしても、巧みな弁舌とメディア戦略で人気を博したが、その言葉の鋭さは時に人々の信頼や連帯を傷つける刃ともなった。
宮司は、こうした時代の価値観に違和感を覚える。日本が本来持っていた「人としての慎み」や「自然への畏敬」、「静けさの中にある美」を守ることこそが、本当の豊かさではないかと信じている。
便利さや合理性ばかりを追いかける現代の流れのなかで、失ってはいけないものがある。それは、目には見えないけれど、心に深く刻まれてきた日本の「かたち」であり、「こころ」である。
宮司は、神社という場を通して、その記憶と祈りを守っていきたいと願っている。