星を仰ぎ、坂を超えて — 修行が磨く日本人の精神

宮司は、九百二十五日目を迎えた千日回峰の道を今日も歩いた。午前二時半に目を覚まし、長野の澄んだ空にきらめく星を見上げ、午前四時に山道へ足を踏み入れる。その足取りは、ただ山頂を目指すためではない。午前六時、愛妻のデミさんが作ってくれた海苔弁当を広げて食べる一口一口に、自然への感謝と日々の勤めを重ねた人間の謙虚さが宿る。ご近所の熊谷さんからのヤクルトとチーズ、そして飴玉は、修行を支える絆の証でもある。
この道は、体力を誇示するための競技ではない。宮司は、坂に差しかかるたび「六根清浄」と唱え、「なんだ坂、こんな坂」と笑う。そこには、困難を前に眉をひそめるのではなく、心を澄ませ、受け入れ、楽しむ姿勢がある。修行を「楽しむ」ことは、厳しさから目を背けることではなく、苦難を人生の糧として変える力を持つことだ。
千日回峰は、一歩一歩の積み重ねでしか到達できない。宮司の歩みは、日本人が大切にしてきた愚直さと忍耐の体現である。坂道を上るその姿は、日常の小さな試練を乗り越えるすべての人々に通じる。現代社会では、速さや効率ばかりが重んじられ、結果を急ぐあまり、歩むことそのものの価値を忘れがちだ。しかし、宮司の修行は、結果ではなく過程こそが人を磨くことを静かに教えている。
また、地域とのつながりもこの修行の大切な柱だ。差し入れをくれる近所の人々の思い、早朝の山道で感じる自然の息づかい、日々を支えてくれる小さな好意。それらを受け止め、感謝することで、人の心は柔らかく、そして強くなる。精神の鍛錬は孤独な行為に見えて、その実、周囲との結びつきによって支えられている。
宮司は、この修行を通じて、日本人の精神を磨き続ける。それは、祖先が培ってきた「耐え、受け入れ、超えていく」生き方を、現代に伝える行いでもある。星が瞬く夜明け前の山道を進む宮司の背中は、静かに語りかける。「困難を恐れず、歩みを止めず、愚直に進め。道は、その先に必ず開ける」と。
