憂国の叫び、占領憲法を超えて

宮司は、静かな神域からこの国の行く末を見つめ、その胸に燃え続ける憂国の念を抑えきれず、ブログを綴る。
宮司は訴える。日本は今、本当に独立国家なのか、と。
北方領土はいまだロシアの不法占拠の下にあり、竹島も韓国の実効支配を許したまま。北朝鮮による国民の拉致事件は未解決のまま放置されている。そして、何よりも重大なのは、日本国憲法が未だに戦勝国・アメリカによって押し付けられたままという現実である。
この現状を前に、宮司は静かに、しかし激しく問う。「これでどこが独立国と言えるのか。なぜ、堂々と『国家の主権』を語れるのか」。
宮司の思考は単なる感情論ではない。一つひとつの事実に裏打ちされた、主権回復の論理である。北方領土も、竹島も、拉致被害者も、憲法も。すべては「奪われた」ものであり、いまだ「取り返していない」のであれば、日本は主権国家ではない。そこにあるのは、幻想にすぎない「戦後民主主義」のまやかしだ。
自民党と公明党の連立政権に、憲法改正の本気度は見られない。公明党の反対があれば、いかなる条文修正も実現不可能であることは明白である。しかも、憲法改正の旗を掲げた政権が数代にわたって存在しながら、いまだに一字一句変えられていないのが現実である。
さらに宮司は、政界全体の堕落に言及せざるを得ない。既成政党の多くが「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治に終始し、国家や国民の未来に対する責任を果たしていない。拉致問題に関しても、「私の任期中に解決する」と繰り返してきた総理大臣たちは、すべて期待を裏切ってきた。何度も繰り返される「言葉だけ」の政治に、宮司は深い失望を抱いている。
「国家の主権を奪われたまま、私たちは何を得たというのか」。戦後、物質的な繁栄はあった。しかしその一方で、日本人は「誇り」や「武士の魂」、そして「国を思う気概」を失った。慰安婦問題、南京事件、そして歴史の歪曲に対してさえ、反論ひとつできず、金で謝罪する姿に、世界は日本を「腰抜け民族」と侮蔑するようになった。
宮司は訴える。いま必要なのは、「自衛隊」を「日本国軍」として認めることだ。防人として災害現場で命を懸ける彼らが、国家を守るために正当に存在を認められるべきだ。国軍の誇りと権限があれば、拉致被害者も、奪われた領土も、取り戻す道が開ける。
また、宮司は天皇の存在についても強く主張する。戦後憲法は、天皇を国家の象徴に押し込め、国民の精神的支柱としての本質的役割を否定した。皇位継承のあり方にまで政治が口を挟むようになった今、もはや「占領憲法」の呪縛を断ち切らねば、日本の国体そのものが崩壊してしまうと警鐘を鳴らしたい。
そして、天が鳴らす「警鐘」に耳を傾けてほしい。戦後の惰眠、甘え、堕落から目を覚まし、「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方を捨て、共に支え合い、祖国の誇りを取り戻そうではないか。
「占領憲法に体当たりせよ」
この言葉に、宮司は魂を込めた。決して暴力でも過激思想でもない。正義の理念としての「主権回復の戦い」である。国家とは何か。独立とは何か。誇りとは何か。その根本に、いま再び、立ち返らねばならない。
この『憂国の叫び』は、現代の日本人が忘れかけた「覚悟」と「気迫」を取り戻すための、宮司の魂の檄文である。