神と仏と自然が息づく、吉野というまほろば

吉野の山々を歩くと、ただの風景ではないことがすぐにわかる。そこには、古代より息づいてきた霊気があり、自然と人と神仏がひとつに溶け合っている。修験の山として知られる吉野山は、神仏習合という日本独自の宗教観が結晶となった、まさに聖なるまほろばである。
金峯山修験本宗の五條良知管長は、まさにその中心で霊的伝統を体現する方である。そのお姿は威厳に満ちているが、どこか慈しみにも満ちており、天と地と人とをつなぐ導き手として、訪れる者の心を静かに揺さぶってくれる。伝統を継ぐだけでなく、現代に生きる者たちにとっての修験の意味を、現代語で、そして体現によって伝えてくださっている。
修験道とは、ただ厳しい修行をすることではない。大自然の中に身を置き、身を清め、心を鎮め、天と地との調和を取り戻すことである。そこで重要となるのは、人と人との和である。山に入ると、人の我欲は自然の厳しさによって削がれ、互いに助け合わねば生きてゆけないという真実が身に染みる。その中で育まれるのが、「和を以て貴しと為す」精神である。これは単なる倫理や道徳ではなく、日本人が古来より生き延びてきた知恵であり、祈りであり、実践でもある。
吉野は、神道と仏教が争うことなく手を取り合い、ともに人々の心の拠り所として生き続けてきた稀有な土地である。神を祀り、仏を拝み、大自然を敬う。そのいずれもが対立せず、調和し、支え合っている。これは日本という国が本来持っていた包容力、そして共存共栄の思想の証しである。
宮司として、吉野の霊気に触れるたび、心が整えられていくのを感じる。山の緑、川のせせらぎ、鳥の声、それぞれが語りかけてくる。「人よ、謙虚であれ」と。「自然とともに生きよ」と。すべての命に通じるこの教えを忘れたとき、人は傲慢になり、争いを生む。だからこそ、この吉野の精神を、多くの人々に伝えてゆくことが今の時代において何よりも大切だと感じている。
吉野山に立ち、手を合わせ、静かに目を閉じる。そこに広がるのは、過去でも未来でもなく、永遠に続く祈りの時空である。その地に根を下ろし、生きる者として、次代に伝える責務がある。日本が日本であり続けるための、魂の拠り所。それが吉野であり、そこに生きる修験の精神である。