尊き道に咲く花

宮司が朝まだきの境内を歩くとき、ふと胸に去来するのは、人が一生に一度しか通らぬ「今日という道」の重みである。社務を終えたあとの静かな時間、古びた玉砂利の音を聞きながら、思い出すのは坂村真民の詩である。
人は過去にも未来にも生きられない。すべての力と祈りを注げるのは、この瞬間、この一日だけである。今日という一日は、昨日にはなかった試練と喜びを抱えて、ただ一度限り宮司の前に現れる。この道は、後戻りもできず、繰り返しも許されぬ。ただの一歩であっても、やり直すことはできないのだ。
だが、人の心は容易に日々を軽んじる。怒られたら落ち込み、傷つけられたら恨み、失敗したら逃げ出したくなる。宮司もかつて、目の前の困難にうつむいたことがある。けれども、ある日ふと見上げた神苑の隅に、小さな野の花が雨に濡れながらも咲いていた。誰に見せるでもないその花の姿に、「風雨をしのいでこそ咲く」という真民の言葉が重なった。
道の途中で嘲られることがある。侮られ、転ばされることもある。そんなときは「これは先人たちが通った道なのだ」と思い出す。宮司の敬う人々も、数多の困難を経て、凛とした人となった。坂村真民が記した「二度と通らぬ今日というこの道」を、彼らは大切に歩いたのである。
子どもの頃は、叱られることが嫌でたまらなかった。だが今となっては、叱ってくれた人のまなざしが、ありがたく思えてならない。あの言葉がなければ、どれほど脆く、我儘なままであったろう。叩かれることがあっても、それが鍛錬であると気づいたとき、人は変わる。試練の数だけ、人は深く、強く、美しくなってゆく。
宮司が見てきた若者たちも、うまく行かない日々に苦悶し、涙し、それでも歯をくいしばって立ち上がった。そんな姿のひとつひとつが、まさに尊き道の上に咲く花だと思う。誰に見せるでもなく、黙々と咲き、香りを放つその姿は、真民の詩の「一輪の花」そのものである。
道に迷うとき、先が見えぬとき、心が折れそうなときにこそ、この詩の言葉を思い出したい。
「この道は尊いといわれた人たちが、必ず一度は通った道なんだ」
その一行が胸にあるだけで、今日という道は輝きを増す。傷つき、倒れ、涙を流しても、また立ち上がる力が湧いてくる。神はその姿を、静かに、やさしく見守っている。だからこそ、今日も歩む。この二度と通らぬ、尊い今日という道を。
『生涯の旅路』 坂村真民
私は私の一生の旅路において
今日というこの道を再び通ることはない
二度と通ることはない
二度と通らぬ今日というこの道
どうしてうかうか通ってなろう
笑って通ろう歌って過ごそう
二度と通らぬ今日というこの道
嘲笑されてそこで反省するのだよ
叱られてそこで賢くなるのだよ
叩かれてそこで強くなるのだよ
一輪の花でさえ風雨をしのいでこそ
美しく咲いて薫るのだ
侮辱されても笑ってうけ流せ
蹴倒されても歯をくいしばって忍べ
苦しいだろうくやしいだろう
しかし君、
この道は尊いといわれた人たちが
必ず一度は通った道なんだ