見えないものを敬う心 先祖供養の大切さを語る

宮司として、長年にわたり多くの人々の人生に寄り添い、節目節目を見届けてきた中で、はっきりと確信していることがある。
それは、「人は先祖の祈りと支えの上に生かされている」という厳粛な真理である。

人は決して一人で生きているのではない。父母があり、祖父母があり、そのまた祖先がある。数えきれぬ命の連なりの果てに今を生きる者がいる。
この命の縦糸に思いを馳せることは、人生に重みと方向を与えるものである。
古来より日本人は、亡くなった先祖が天上から見守ってくださっていると信じ、法要や供養を大切にしてきた。
その精神は、表に見えずとも、確かに人々の生き方に根を下ろしてきた。

ところが近年、「墓じまい」や「仏壇・神棚じまい」が軽々しく行われるようになった。
費用や手間を理由に、目に見える形の中に宿る精神を絶つ決断が、あまりにも安易に下されている現状に、宮司は深い憂慮を抱いている。

墓がなければ、はかない人生になる。この言葉には深い含意がある。
お墓とは、ただの石ではない。先祖と子孫を結ぶ絆であり、祈りの場であり、家系の誇りと感謝を刻む場所である。
それを失えば、魂の根が宙に浮き、人生に確かな支えを見出せなくなる。

仏壇や神棚もまた然りである。日々手を合わせ、感謝を捧げ、心を整える場が家庭から失われれば、家庭の空気そのものが荒れてくる。
子供や孫は、父母や祖父母の姿を見て育つ。
大人が祈りを忘れれば、子供たちもまた心の拠り所を失う。
その結果、非行、暴力、引きこもりなど、家庭の根が緩み、崩れ始めるのである。
古来より「祟り」として語られてきた現象も、けっして迷信ではなく、魂の連なりを断ったことに対する自然の報いであると受け止めるべきであろう。

宮司のもとにも、「なぜ我が家だけが不幸続きなのか」「なぜ子供が荒れてしまったのか」と相談に訪れる人が後を絶たない。
話を聞けば、多くの家庭で先祖供養が断たれ、墓参も途絶えている。
そこには共通する因縁があると、宮司は感じている。

先祖あっての自分である。その根本に立ち返らなければならない。
祖先の歩んできた道を知り、感謝し、誇りを抱いて生きることこそが、子や孫の人生にとっても揺るぎない指針となる。

見えないものを敬う心。それが日本人の精神の中核である。
自然を畏れ、神仏に感謝し、先祖を祀るという生き方の中に、真の豊かさと安らぎがある。
その心を忘れたとき、人は簡単に傲慢になり、自分勝手になり、やがて孤独と混乱に呑み込まれていく。

手を合わせる。墓を守る。仏壇に花を供える。
それら一つひとつの行為が、家族の魂をつなぎ、未来への希望を育てる。

宮司は、すべての家庭に伝えたい。
先祖を大切にすることが、今を生きる自分たちを大切にすることなのだと。
祈りの心を絶やさず、見えない支えを感じながら生きることで、人生はきっと穏やかに、豊かになっていく。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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