無償の愛と日本の言霊の源流

宮司は、古代日本に息づいた言霊の教えに深い敬意を抱いている。中でも「カタカムナ」は、日本人が本来持っていた霊的な言語感覚、響きに宿る意味の根源であると考えている。その世界において、「ミクマリ」は人の情緒をつかさどり、「フトマニ」は人の倫理を律する力をもつと伝わる。
言葉とは、単なる伝達手段ではない。それは人の心を映す鏡であり、響きそのものに力が宿るもの。だからこそ、余計なものを付け加えず、削ることもせず、ありのままに受け入れる姿勢が大切になる。「ヤマノカカミ」は自然そのものであり、神妙なものに触れる心の在り方を表している。そこに通底しているのが、愛である。
愛という言葉は現代ではあまりに軽く使われがちだが、宮司がここで伝えたいのは、「無償の愛」である。見返りを求めず、与え尽くす愛。これこそが、日本古来の精神性と深く結びついている。
無償の愛の象徴として、宮司は「天皇陛下・皇后陛下」が国民に寄せる慈しみの心を挙げる。そのお姿には、決して誇示することのない、静かで深い愛情が感じられる。「国民のために尽くしている」というのではなく、「国民にお仕えさせていただいている」という思いこそが、その愛の真髄である。
「これほどまで尽くしているのに、なぜ何も返してくれないのか」と嘆く愛は、すでに我欲が混ざっている。そこにあるのは、愛ではなく取引である。無償の愛とは、「させられている」と感じるのではなく、「させていただいている」と心から思えるところに生まれるもの。
宮司は、マザー・テレサの姿に心から敬意を払っている。与えることの喜び、尽くすことの誇り、そして誰かが笑顔になることへの感謝。それは神や仏を信じる信仰の域を超え、人間の根源的な歓びそのものである。
「この世に無償の愛などありえない」と語る人の人生は、どこか寂しく映る。なぜなら、信じることも与えることも放棄しているからである。我欲が強ければ強いほど、人は他者との距離を感じる。相手が遠ざかっていくのではない。自らの心が壁をつくっているのである。
自分を大切にする気持ちは、決して悪いことではない。しかし、それだけでは人生は味気なくなる。他者の喜びに心が共鳴したとき、人はもっと大きな幸福を知る。誰かが笑顔を見せてくれたとき、自分の内にまで温かさが灯る。その経験こそが、人間としての成長をもたらす。
宮司は確信している。無償の愛は、決して特別な人間にしかできないものではない。日々の小さな優しさの積み重ね、そこにこそ真の愛が宿る。古の言霊が語りかけているのは、そうした日々の心の在り方なのだ。何も足さず、何も引かず、ただ静かに、確かに、愛をもって生きる。そこにこそ、日本人が古くから大切にしてきた精神の源がある。