星と山と人の愚かさ―それでも人を愛す理由

宮司は時折、星空を仰ぐ。
遥か彼方に瞬く星々の光が、何億年も前の時間から届いていると想うだけで、人間という存在がいかに取るに足らぬものか、ひしひしと胸に迫る。地球という小さな星の上で、わずか数十年の命を生きる人間。宇宙の尺度から見れば、ほんのひととき舞い散る塵にすぎない。
それでも、その塵のような存在たちは、日々争い、奪い合い、罵り合う。国と国、民族と民族、そして隣人同士。武器を手にして殺し合い、言葉で心を切り刻む。文明の進歩を誇りながらも、心の進化はどこかで置き去りにされてしまったかのようだ。
日本の政治に目を向ければ、その現実はあまりに醜い。國会中継を子供たちに見せるのをためらうのは、そこに大人の品格が失われているからにほかならない。論戦ではなく中傷、討論ではなく罵倒。日本人同士が徒党を組んではいじめ合い、立場の違いで相手を否定し、貶める。国家の未来を語る場が、いつの間にか小さな憎しみの応酬の場になっている。
人間の内向きな愚かさに嫌気がさすと、宮司は山に登る。
北アルプスの峰に立ち、中央アルプスの稜線を歩き、南アルプスの山頂から遥か下界を見下ろす。そのとき、地上の喧騒は風に消え、すべてが遠い幻のように思える。山は語らぬ。山は争わぬ。ただ悠然と、太古からそこに在る。
山頂から見下ろす世界では、人間が日々繰り広げる争いや嫉妬が、いかに小さく、ちっぽけで、意味のないものかを思い知らされる。ささいな言葉に傷つき、相手の違いを許せず、わずかな利益のために他者を蹴落とす。そのようなことに命をすり減らしている人間という存在は、つくづく愚かだと思う。
だが、そう思う宮司もまた人間である。
怒り、哀しみ、時に誰かを羨み、憎むこともある。悟ったつもりでいても、ふとした瞬間に煩悩が湧き上がる。人間であるということは、結局、愚かさを抱えたまま生きるということなのかもしれない。
それでも宮司は、人を憎みきれない。
星空の下で語らう声に救われ、山頂で誰かが淹れてくれた一杯の湯に心を打たれる。人間の愚かさと同じくらい、人間の優しさに心を動かされる。
だからこそ、祈る。争いではなく、和解を。憎しみではなく、慈しみを。人は星に比べて小さな存在だが、だからこそ、限られた命の中でどれだけ美しく生きるかが問われる。
愚かであることを知る者だけが、真に賢くなれると信じて。