誇りある日本人として、今なすべきこと

宮司は思う。今の日本人が最も見失っているもの、それは「日本人としての誇りと自覚」ではなかろうか。便利さに慣れ、自由を謳歌しながらも、どこか空虚な日々を送っているように見える。日本という国が長い歴史の中で育んできた精神の根幹が、静かに、しかし確実に失われている。そう感じずにはいられない。

この国は、古より「祭祀の國」として、神々と共に生きてきた。人々は自然を畏れ、祖先に感謝し、天と地の理に則って生きることを尊んできた。それこそが日本の美しさであり、世界に誇るべき精神文化だった。

しかし、今の日本人は、その根っこを忘れてしまってはいないか。何のために生きるのか、誰のために祈るのか、そうした根源的な問いが心から失われてはいないか。
日本を再生させねばならない。よみがえらせねばならない。このままの日本では、あまりにも無念である。

では、どうすればよいのか。
宮司は考える。まずは「中今」に生きることだと。過去を悔やまず、未来を恐れず、今という一瞬に全身全霊を注ぐ。これは神道の根本精神でもある。何ものも恐れず、清らかで明るい心、「清明」の心を持って今を生きるべきである。

そして何より大切なのは、「英霊」に対する誠を捧げることではなかろうか。今日、私たちがこうして平和に暮らしていられるのは、多くの御霊がこの国を護るために尊い命を捧げてくださったからである。

宮司は、東京を訪れるたびに必ず靖国神社に参拝する。これは特別なことではなく、ごく自然な行いである。だが、その当たり前が、当たり前ではなくなっている。靖国神社を語ることすら、忌避する風潮が広がっている。

なぜか。それは戦後の教育と報道の影響に他ならない。靖国の御霊は「戦犯」ではない。あの戦争に命をかけたすべての人々が、等しく祖国を思い、家族を思い、未来を信じて散っていった。その魂を貶めることは、断じて許されることではない。

宮司は信じている。日本人は死者を鞭打たない民族である。人は死んだら神となり、その魂は祖先神として後の世を見守る存在となる。
英霊たちは、すでに神々である。その神々を、「A級戦犯」「B級戦犯」などと、他国の裁定に従って犯罪者扱いするような言動は、日本人の精神から遠く離れてしまった証だろう。そうした者は、日本人の姿を借りた「化物」とさえ言えるのではないか。

戦勝の驕りに満ちた他国が、時に日本を貶めようとすることもある。だが、それに迎合し、祖先を貶めるのは他でもない日本人自身である。ここに、今の日本の病根がある。

再生への第一歩は明快である。
子や孫の手を引いて靖国神社へ参拝し、深く頭を垂れること。それが、誇りある日本人の務めではなかろうか。日本という国は、単なる経済圏でも地理的な枠組みでもない。祖先の魂とともに歩む「心の共同体」である。

靖国神社に限らず、伊勢神宮、出雲大社といった聖地を訪れ、神々に感謝の念を捧げることを、もっと自然な習慣に戻していきたい。日本人でありながら、これらの神域に一度も足を運んだことのない者が多数いるという現実は、嘆かわしい。

宮司は願っている。そのような無関心に、ようやく「恥」を感じる時代が到来してほしいと。

日本人が最後に守るべきは、「三種の神器」と「宮中三殿」である。これは単なる歴史的遺物ではない。日本という国の魂であり、国家としての命脈である。ここに立ち返らなければ、日本という国は形骸となり、いずれは他国の風に吹き飛ばされてしまうだろう。

いま、目を覚まさねばならない。
日本人の心を取り戻す旅路は、「誇りと自覚」を取り戻すところから始まる。そして、その第一歩が、神々と英霊に「誠」を捧げることである。

それが、宮司の確信である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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