「人物を見抜く眼」

心を見て、国を思う
人物を見分ける力とは、学問でも知識でもなく、日々の暮らしの中で育まれる感性と洞察であると、宮司は確信している。世間では、金に汚い者は悪、金に清い者は善といった短絡的な基準がまかり通っている。だが、それだけで人を測ってはならない。表面的な富や発言に左右されることは、まさに「人物学」の初歩にすら届かぬ愚行である。
宮司の人物観の基軸は、「出処進退の潔さ」にある。どのように地位に就き、どのようにその座を去るか。ここにこそ、その人間の本質が表れる。潔く退くことができる人物は、己を弁え、国や民に奉ずる覚悟を持つ者である。反対に、自らの過ちを認めず、責任から逃げ回る者は、どれほど雄弁であろうと「悪しき人」である。現代の政治家において、そのような潔さを示す者はごく稀であり、安倍晋三総理の存在はまさに例外であった。だからこそ、宮司は安倍総理を敬愛し、その銅像の建立を夢と目標に掲げている。
人物の善悪を見抜くうえで、宮司は「こころ」を最も重んじる。美貌でも、知名度でもなく、「こころの綺麗さ」が本当の美人をつくる。損得では動かず、勇気をもって正しきことに身を投じる「こころ」こそが、人間の根である。「喜怒哀楽驚」、この五つの感情にこそ、人の真の姿が表れる。
明代の処世訓『呻吟語』には、こう書かれている。
- 大事・難事に「担当」を看る
- 逆境・順境には「襟度(ふところの広さ)」を看る
- 臨喜・臨怒には「涵養(内なる修養)」を看る
- 群行・群止には「識見(見識の高さ)」を看る
これらこそ、真の人物を見る目である。宮司は、外見や言葉に惑わされず、相手の立ち居振る舞いに注目する。「九十度の拝礼」ができるか。「四十五度の敬礼」ができるか。「十五度の挨拶」が自然にできるか。「おはようございます」「いただきます」「おやすみなさい」という言葉が日々の習慣として口から出るか。靴をきちんと揃えられるか。こうした何気ない所作の中に、その人間の「こころ」が現れる。
そして、宮司が何より重視する指標がある。それは「靖国神社に参拝できるか否か」である。自らの国のために命を捧げた英霊に対し、頭を垂れることができるかどうか。これは政治信条ではない。人間としての恥と感謝の問題である。参拝できぬ者は、心のどこかに後ろめたさを持っている。戦後の平和と繁栄の上に胡坐をかき、英霊に敬意すら払えぬ者は、いくら弁舌巧みであろうとも、決して「良き人」ではない。
宮司は信じている。人物の本質は、肩書でも功績でもなく、「こころの在り方」にあると。利害や打算で動く者は、国を滅ぼす。恥を知り、義を貫き、感謝を忘れぬ者こそが、この国を再び立ち上がらせるのである。
ゆえに、若者には問いたい。誰を信じ、誰を尊ぶか。その基準をどこに置くのか。宮司は、姿勢、挨拶、祈りの所作、そして靖国への思いに、その答えがあると信じている。人物を見抜く眼を養うことは、国家を見抜く眼を持つことに通じる。そしてそれは、真の日本人としての道を歩む第一歩となる。