山を喰らう黒い鏡 ―メガソーラーが奪う命と祈り―

宮司は、熊が山から里へ降りてきたという報せを聞き、深い悲しみを覚えた。山に生きる動物たちは、決して好んで人里に姿を現すわけではない。そこに追いやったのは、私たち人間の側にある自然への無理解と傲慢である。かつて日本人は、山を「神の鎮まるところ」として敬ってきた。木を伐るにも、岩を砕くにも、祈りを捧げ、感謝を忘れなかった。ところが現代社会は、その神聖な関係を断ち切り、利益のために山を削り、谷を埋め、広葉樹林を切り払っている。

再生可能エネルギーの名のもとに、太陽光パネルが山々を覆い始めた。人々は「環境に優しい」と称しているが、実際には森林を破壊し、動物たちの生息域を奪い、土砂災害を誘発している。宮司はその実態を前にして、再生可能エネルギーの推進そのものに強い疑問を持っている。自然の恵みを奪いながら「環境のため」と語ることほど、欺瞞的な行いはない。真に自然を守る心を持つなら、まずは自然を壊さない道を選ぶべきである。

熊が人里に現れるのは、天罰ではなく、人間への警鐘である。広葉樹林の伐採によって、どんぐりが実らなくなれば、熊は餌を求めて山を降りざるを得ない。人は自ら原因を作りながら、熊を「害獣」と呼び、銃を向ける。麻酔銃で捕獲し、山へ帰す方法があるにもかかわらず、安易に殺す方を選ぶ。命に対する敬意を失った文明の行き着く先は、必ずや自らの滅びである。

さらに問題を複雑にしているのは、この太陽光パネルの多くが中国製であるという現実だ。その製造過程では、ウイグルの人々が労働を強いられているとの報告がある。自然を守るはずの事業が、人権を踏みにじる構造の上に成り立っている。その矛盾を直視せず、「安価だから」「エコだから」と口にするのは、他者の苦しみへの無関心に他ならない。自然の破壊と人権の抑圧は表裏一体であり、どちらも「神を忘れた人間の姿」である。

宮司が願うのは、自然を「利用する対象」としてではなく、「共に生きる存在」として捉える日本の心の復興である。太陽光や風力のような技術を全否定するものではない。問題は、その思想と姿勢にある。人の便利さのために自然を犠牲にするのか、それとも自然と調和しながら生きる道を選ぶのか。そこに文明の価値が問われている。日本古来の信仰は、山川草木に神を見た。木一本にも命を感じ、鳥獣にも敬意を払った。そうした精神を取り戻さぬ限り、どんな政策も真の環境保護とはなり得ない。

自然を守るとは、ただ「緑を残す」ことではない。人の心を正し、足るを知る生き方を取り戻すことである。山を守れば、水が守られる。水を守れば、田畑が守られる。田畑を守れば、人の命が守られる。すべてはつながっている。自然の破壊は、巡り巡って人間の命を脅かす。熊が里に降りてきた今こそ、人が山を見つめ直す時である。自然の声を聞き取る感性を失えば、文明はただの廃墟に変わるだろう。

宮司は信じている。人間が再び自然を畏れ、敬う心を取り戻せば、熊もまた山に帰っていくと。自然の調和を乱すことなく生きることが、日本人の本来の道である。自然と共にある生き方、それこそが「美しい国」の礎であり、人間が忘れてはならない永遠の誓いである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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