高市早苗総裁をめぐるメディア批判に思う

宮司は近年の政治報道に漂う不誠実さを憂えている。報道は「国民の知る権利を守る」と称しながら、その実、特定の思想や価値観に沿った情報を選び取っている。高市早苗総裁をめぐる報道がその典型である。靖国神社に参拝し、夫婦別姓に反対し、働くことの尊さを語る姿勢に対し、メディアは「時代錯誤」「危険な思想」とのレッテルを貼る。これは報道ではなく、思想誘導である。

報道の使命は、権力を監視することにあると同時に、国民に正確な事実を伝えることにある。だが、現在の一部メディアは「監視」の名を借りて、個人攻撃に終始している。記者が「支持率を下げてやる」と口にしたという報道は象徴的だ。もはや偏向ではなく、敵意そのものである。国民の信頼を得ようとするなら、まずは報道の場に「清浄心」を取り戻すべきであろう。

日本のメディアには「角度をつける」という言葉がある。あらかじめ結論を決め、その方向に沿って取材し、編集し、印象を操作する手法だ。これは真実を伝える報道ではなく、思想運動に近い。国民の意識を特定の方向へ誘導するその姿勢は、民主主義の根幹を蝕む。高市総裁への批判報道の多くが、この「角度づけ」によって成り立っていることを、私たちは見抜かなければならない。

政治報道における公正とは、すべての立場に等しく光を当てることである。だが現実には、保守的な価値観を掲げる政治家が登場すると、メディアは「自由の敵」「古い日本の象徴」として攻撃を加える。日本人が本来大切にしてきた信仰、家族、勤勉、そして国を敬う心を語る者は、なぜか時代遅れとされる。この風潮こそ、戦後教育の延長線上にある「自国否定の思想」の残滓である。

国を思う心、働く誇り、祖先への感謝。これらは人としての根本であり、国の柱である。高市総裁の言葉には、その根源的な精神が宿っている。「働いて働いて働いて」と語るのは、単なる労働礼賛ではない。日本人が長い歴史の中で培ってきた「まごころの勤労」、つまり他者と国のために尽くすという美徳の表れである。その精神を「時代に逆行する」と断ずるメディアこそ、魂を失っている。

真の報道とは、思想や立場を超えて、事実を通じて人々に「考える自由」を与えることである。国民が判断するための材料を誠実に提供する。それが言論人の責務だ。自らの思想に都合の良い事実だけを並べ、異なる価値観を排除することは、報道の名を借りた支配である。

高市早苗総裁が直面しているのは、単なる政局の試練ではない。日本という国の魂を取り戻すための戦いである。メディアがどれほど印象操作を行おうと、真実を求める国民の心までは操作できない。国を思い、未来を憂う者たちは、虚飾の報道に惑わされず、自らの眼で政治を見つめる力を取り戻さねばならない。

言論の自由とは、好き勝手に人を貶める自由ではない。責任を伴う表現の自由である。報道が再び信頼を取り戻すためには、まず己の姿勢を正すことから始めるべきだ。日本の言葉には「誠」という尊い概念がある。誠は、真実を伝える力であり、心を通わせる力でもある。その精神を忘れた報道は、いかに立派な紙面を飾ろうとも、国を導く羅針盤とはなり得ない。

高市早苗総裁をめぐる報道の在り方を通じて、宮司はあらためて問いたい。報道とは誰のためにあるのか。国家のため、国民のため、そして未来の日本のためにこそ、公正で誠実な報道が求められているのではないか。真実を伝える者が、まず「日本を愛する心」を持たずして、どうして国の行く末を語ることができるだろうか。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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