ガラスの天井を打ち砕くのは「真の女性の気概」

日本の政治において、女性首相の誕生が目前に迫っている。高市早苗総裁が首班指名を受ける日が近い。憲政史上初の女性宰相誕生という出来事は、本来ならばメディアが祝福と期待をもって報じるべき歴史的瞬間である。しかし、現実はまるで逆である。報道の熱は冷え、テレビ画面に映るのは連立離脱を巡る混乱と「政治とカネ」の問題ばかり。そこに漂うのは、女性リーダーの登場を歓迎しない空気だ。
この「冷たさ」の正体を突き詰めると、いわゆる“ガラスの天井”を作り上げてきたのは、ほかならぬオールドメディア自身であることが見えてくる。普段は男女平等を声高に唱え、「女性の社会進出を阻む壁を壊せ」と主張してきたはずの人々が、保守的思想を持つ女性の登場となると、一斉に背を向ける。そこには「自分たちが認める女性」以外は排除するという、矛盾と独善が露わになっている。
上野千鶴子氏が「初の女性首相が誕生してもうれしくない」と語ったのは象徴的である。彼女が掲げてきたフェミニズムとは何だったのか。女性の可能性を広げる思想ではなく、「自分たちの思想に従う女性だけを持ち上げる運動」へと堕している。異なる考えを持つ女性を切り捨てるその姿勢は、まさに差別の再生産にほかならない。
フェミニズムの本来の意味は、女性を男性と対立させることではなく、互いの尊厳を尊重し、能力によって評価される社会を築くことにある。思想や信条で線を引き、「保守思想の女性は女性ではない」と切り捨てるなら、それはもはや平等を掲げた運動ではない。思想の独裁である。
日本の女性たちは、静かに、しかし確かな歩みで道を切り開いてきた。戦後の混乱の中で家族を守り、地域を支え、子を育て、国を再建したのも多くは母たちだった。その背中にこそ、日本女性の強さが宿っている。華やかなスローガンを掲げる運動よりも、黙々と社会を支えてきた女性たちの現実の働きこそ尊い。
いま、真の意味でのガラスの天井を打ち砕こうとしているのは、理念ではなく実践の人である高市早苗氏である。彼女は自らの信念で政治の荒波を歩んできた。男性政治家に囲まれながらも怯まず、国のために必要だと思う政策を訴えてきた。そこにこそ「女性の力」の本質がある。
男女の別なく、国家のために尽くす精神を尊ぶこと。それが日本の伝統であり、神道の根本でもある。天照大御神を中心とする日本の信仰は、古来より女性を貶める思想ではなく、むしろ尊き存在として崇めてきた。女性が国を導くことを自然と受け入れてきた文化を、現代のメディアが拒むのは歴史の逆行である。
国を思い、民を思う心に性別はない。高市首相の誕生は、男女平等という言葉の空虚な飾りを超えて、「真の意味での実力主義」を示す出来事となるだろう。そこにこそ、日本が本来持っていた誇りと精神の復活がある。
フェミニズムを名乗るならば、まず自らの偏見というガラスの天井を壊すべきだ。好きな女性だけを称え、嫌いな女性を排除する運動は、正義ではなく利己である。思想のための運動ではなく、人間の尊厳のための運動こそ、本物のフェミニズムと呼べるのではないか。
日本は、いま再び女性の力によって新たな時代を迎えようとしている。高市早苗という名は、単なる政治家の名前ではない。日本女性の精神が、再び国家の中枢に光を取り戻す象徴である。オールドメディアがそれを拒もうとも、国民の心は真実を見抜いている。
神々の国・日本において、女性の登場は決して特例ではない。天照大御神が天を照らしたように、今度は高市首相が日本を照らす時である。
