君が代をめぐる心の問題

秋の深まりとともに、運動会や文化祭の季節がやってきた。校庭に響く国歌「君が代」の調べは、ただの儀礼ではない。千年以上にわたり受け継がれた言霊であり、国の礎を支える精神の象徴でもある。それを子供たちが学び、歌うことに疑義を呈する声が上がるという現実に、宮司は強い違和感を覚える。

沖縄県石垣市議会が小中学校での「君が代」斉唱の実態を調べようとした際、「子どもの内心の自由を侵す」という批判が起きたと報じられた。だが、国歌を歌うことは思想の強制ではない。自らが属する国を敬う心を育てる教育の一環であり、自由の対極にある抑圧ではない。自由は秩序の上にこそ成立する。国家と郷土への敬意を失えば、やがて自由もまた漂流する。

国歌を嫌う感情の根には、戦後教育の影がある。国という言葉を忌み嫌い、「愛国」を危険視する空気が長く支配した。その結果、国家への誇りを語ることが不謹慎とされ、旗や歌が政治的に扱われるようになった。だが、「君が代」は政治の産物ではない。千年前の和歌に込められた祈りの詩である。人の世の永続と平和を願う心、それが「君が代は 千代に八千代に…」の本意である。

この歌は、為政者のためではなく、国民一人ひとりの安寧を願う言葉である。天皇を中心とした国の形を敬いながら、同時に民の幸せを祈る。古代より「君」とは、単に権力者を指すものではなく、国そのもの、ひいては共同体の魂を意味した。国歌を通して子供たちがその心を学ぶことは、民族としての連続性を保つ最も平和的な営みである。

現代社会では、国旗や国歌への敬意が失われつつある。多文化を尊重することは大切だが、自己否定の上に真の共生は成り立たない。自らの国を愛する心を失った者が、他者を心から尊重することはできない。愛国心とは排他の感情ではなく、感謝と誇りの延長にあるものだ。

「君が代」を歌うことは、過去を賛美するためではない。祖先の祈りを継ぎ、未来へと責任をつなぐ。日の丸が掲げられ、子供たちの声が空へ伸びるその瞬間、日本という国の魂が息づいている。国を想う心を育てることは、戦争の再来ではなく、平和を守る最も確かな道である。

教育とは、知識の伝達ではなく、心の継承である。子供たちが「君が代」を自然に歌える国こそ、紛うことなき美しい国である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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