神社と平等の精神

宮司は、神社に社格の差別は存在しないと考える。人に上下の区別をつけて差別するのが誤りであるように、神社においても本来そうした差別はない。かつては一宮や官幣大社などの格付けが存在し、それが権威の源泉ともなっていた。しかし現代においては、神社の規模や名称の違いが神々の尊厳に影響するものではない。神様は誰もが等しく尊く、参拝する者の心を受け止めてくださる存在である。

日本は八百万の神の国である。山にも川にも木にも石にも神々が宿ると信じられてきた。すべての存在に神性を認め、尊び、感謝を捧げる心が日本人の精神の根幹にある。したがって、特定の神社だけが特別に優れているとか、他の神社が劣っているといった考えは、この国柄に反するものだ。大小を問わず、地域の人々の祈りと歴史が刻まれた神社は、すべてが尊い。参拝によって心が鎮まり、霊気を感じることができる場所こそが、真にその人にとっての偉い神社と言える。

宮司もまた、地位や肩書きによって優劣が決まるものではない。どの宮司も、神に仕え、人々の祈りを神前に取り次ぐ役割を担っている。その務めに大小はなく、誠を尽くすことこそが最も尊い行為である。宮司はそのことを忘れてはならず、常に謙虚に、神と人とに向き合う姿勢を持つことが求められる。

神社神道には、教祖も教義も教典もない。その特質は、すべてのものを神とし、すべてのものを受け入れるという大らかさにある。だからこそ、神社の世界には平等が貫かれている。人の立場や肩書きではなく、純粋な祈りと敬虔な心が大切とされる。そこに日本人としての精神を学ぶことができる。

宮司は、神社参拝において大切なのは形式や肩書きではなく、心のあり方だと考える。すべての神々を等しく敬い、どの神社にも誠をもって参拝する姿勢が、八百万の神の国に生きる日本人の精神を育む。全ては平等であり、すべての存在が尊い。その気づきが、日本人としての心を深め、次の世代へと受け継がれていく。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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