令和の岐路に立つ国のかたち

戦後レジームが、いま終わろうとしている
令和という時代は、静かに見えて、実は大きなうねりの中にある。表面は穏やかな潮に見えても、海の底では強い潮流が国の進路を変えつつある。宮司は、いまこの国が再び「自らの舵を取り戻す局面」に立っていると感じている。
戦後、日本は焼け野原から奇跡的な復興を遂げた。勤勉さ、規律、誠実さ、そして互いに助け合う心。これらは、雨に打たれても折れぬ竹のように、この国を内側から支えてきた。だが、時代の風は常に一定ではない。強い逆風の中で、根を深く張る木は立ち続けるが、根を弱めた木は静かに倒れていく。
いまの日本には、目に見えぬ「縛り」が多い。経済の流れにおいても、国の安全を守る仕組みにおいても、また人と人との結びつきにおいても、本来あるべき力が十分に発揮されていない。これは単なる制度の問題ではない。国の骨格が、長い年月を経て歪みを生じているということに他ならない。
経済の停滞を、努力不足や能力不足の問題にすり替える風潮がある。しかし、川の上流に堰が築かれていれば、下流の田畑が潤わないのは道理である。働く者が汗を流しても、成果が十分に還元されない構造があれば、暮らしが苦しくなるのは必然である。宮司は、個人の責任論に押し込める思考こそが、最も容易で、最も危うい逃げ道だと考えている。
また、社会のかたちが変わる中で、人と人との結びつきが細ってきた。かつては、家族や親族、地域が一つの輪となり、幼い命を抱え、迷う者の手を引いてきた。森の木々が根を絡ませ合い、一本が倒れぬよう支え合うように、共同体は弱き者を包み込む仕組みを持っていた。だが、その網の目がほどければ、孤立する者は増え、痛みは個人に集中する。社会の病は、個人の弱さではなく、支え合う構造の劣化から生まれることが多い。
安全の問題も同じである。独立した国が本来持つべき力を十分に行使できない状態は、城の門を半ば開いたままにしているようなものだ。敵意を持つ者が外にいるかどうかに関わらず、門を閉じる備えを怠ることは、住民の不安を増幅させる。守る力は、攻めるためではなく、日々の暮らしを静かに守るためにこそ必要なのである。
この国の精神の根には、火がある。派手に燃え上がる炎ではない。囲炉裏の炭のように、長い夜を照らし続ける温もりである。困難に直面したとき、声高に叫ぶのではなく、歯を食いしばり、やるべきことをやり抜く底力。利を見て先に走るのではなく、義を重んじ、後の世に恥じぬ選択をする矜持。こうした心の灯は、制度や法律が変わっても、守り育てねばならない。
令和の時代は、技術が進み、世界は一瞬でつながる。情報は洪水のように押し寄せ、真偽の見分けが難しい。だからこそ、足元の土を確かめる感覚が重要になる。根無し草は、どれほど美しく見えても、強風に耐えられない。国もまた同じである。歴史を踏まえ、文化を尊び、先人の営みを土壌として、はじめて未来へと枝葉を伸ばすことができる。
宮司は、若い世代に訴えたい。国のかたちは、誰かが与えてくれるものではない。一人ひとりの選択と責任の積み重ねが、やがて時代の輪郭を形づくる。自らの仕事を丁寧に果たすこと、家族や隣人を思いやること、理不尽に沈黙しないこと。これらは小さな行いに見えるが、無数の雫が集まって大河となるように、やがて国の進路を変える力となる。
夜明け前の空は最も暗い。だが、東の空が白み始めたとき、闇はすでに後退している。いまの日本もまた、同じ刻を迎えているのかもしれない。過去の歪みを直視し、必要な改めを恐れず、誇るべきものを胸に抱いて歩むならば、この国は再び、自らの足で大地を踏みしめることができる。
潮目は変わりつつある。流れを止めるのは容易ではないが、帆を張り、舵を握ることはできる。次の世代が、胸を張ってこの国を語れるように。宮司は、神前にて日々の安寧を祈りつつ、同時に、国を思う一人ひとりの心に静かな火が灯り続けることを願っている。
