志の道。大和魂を未来へつなぐために

人は、志なくして真の歩みを成し得ない。志とは、地位や名声のために掲げる旗ではなく、生き方そのものを貫く内なる灯である。一度その灯が確立されるならば、人に頼らず、世に媚びず、たとえ一人であっても、楽しみつつ歩み続ける力が生まれる。志を立てるとは、己の心に主を置くことに等しい。
志の道を歩む者は、楽を求めぬ。困難を避けず、苦を受け取り、煩わしさを引き受け、閑の時にも心を鍛える。そこにこそ人の器は育つ。人は得意の時に己を見失い、艱難の時にこそ真の姿を現す。逆境は人を壊すのではない。逆境は人を鍛え、内にある力を目覚めさせる。
志は一代で結実せぬこともある。確かな目的を握り、世代を越えて託す覚悟をもつとき、道は大きく拓かれる。先人が蒔いた種は、今を生きる者の努力によって芽吹き、次の世代の実りとなる。国家の歩みもまた同じである。短期の成果に心を奪われるとき、百年の計は失われる。長い時間の視野をもって国を思う心が、愛国心の真の姿である。
現代社会において、最も欠けやすいのは人物の涵養である。人の数は多くとも、あるべき場所に、あるべき心をもつ人が少ないとき、組織も社会も芯を失う。地位に人が就くのではなく、人が地位を照らす。その順序を誤れば、国家は形を保ちながら中身を失う。心を修め、責任の場に立つ者が増えることこそ、社会再生の要である。
志の根は、心の荒れ地を耕すことから始まる。仁義礼知の種は、天より授かった尊い種である。荒蕪を放置すれば、善き種は芽吹かない。日々の言葉、振る舞い、仕事への姿勢が、心の土壌を整える。善き実りは偶然に生まれぬ。培われた土壌からのみ、大輪の花はひらく。
真の強さは外に示す力ではなく、内に養われる力である。精神の勇気を磨き、己に克つ者は、外の世界にも折れぬ。困難を十字架として引き受ける覚悟が、人の生を意味あるものへと形づくる。たとえ状況が厳しくとも、最後の一瞬まで生命を意味づける可能性は閉ざされない。志は、その可能性を最後まで照らす灯である。
仕事に熱を注ぐとき、労苦は喜びへと転ずる。熱心さは心を澄ませ、技を磨き、日々を豊かにする。読むこと、観ること、聴くこと、語ること、そして独り考えること。これらの積み重ねが、視野を広げ、判断を深める。小さく縮こまった見方は、人生を窮屈にする。広く大きく観る眼を養うとき、人生は本来の広がりを取り戻す。
志は千里に在る。人は往々にして、限界に見える地点で歩みを止めてしまう。しかし、そこからが真の始まりである。成功の要諦は、成るまで続けることに尽きる。挑まずに得る安逸より、挑んで得る失敗のほうが、人を育てる。夢を食って生きるとは、現実から逃げることではない。夢に見合うだけの情熱と努力を、日々の現実に注ぐ生き方である。
国家もまた、人の集合体である。危機を前にして、自らを拠点に戦う気骨ある人物が現れるとき、歴史は動く。動機は善であるか、私心はないか。その問いは、個人にも国家にも等しく突きつけられる。名声や官位を求めぬ覚悟を備えた者こそ、艱難を共にして大事を成し得る。私心を削ぎ、公共のために身を投じる精神は、日本の伝統に脈々と受け継がれてきた美徳である。
愛国心とは、声高な主張ではない。日々の務めを誠実に果たし、約束を守り、弱き者に手を差し伸べ、ふるさとの風土と文化を尊ぶ心の積み重ねである。国を愛するとは、国の未来を思い、次代のために己を律することにほかならない。夢を持つ若者に道を示し、老いた者が経験を語り継ぐとき、社会は連なりを取り戻す。
道を行い、道を楽しむ者は、必ず艱苦に遭う。その艱苦を凌ぐ術もまた、道を行い、道を楽しむことにある。志の道は平坦ではない。しかし、困難を抱きしめ、内なる火種を絶やさぬ限り、青草のごとき現実も燃え上がる。暮らしは低くとも、思いは高く保たれたい。
宮司は、神前に向かい、人々の歩みと国の行く末を祈り続けている。志を立てることの尊さ、志を貫くことの厳しさ、そして志を次代へと手渡すことの責任を、日々の務めの中で語り継ぐ。大和魂は、語られるだけでは伝わらない。生き方として示されるとき、初めて未来へと渡される。志の道を歩む一人ひとりの背中が、日本人の精神をまっすぐに磨き、次の世代の道標となることを、静かに願う。
