分断の政治を越えて、誠の和を取り戻すとき

宮司は、いまの政局を「魂の分岐点」として見つめている。公明党が自民党との連立を解消し、永きにわたる“数の安定”が崩れた。石原慎太郎氏が十二年前に放った「公明党は必ず自民党の足を引っ張る」という警鐘は、時を経て現実となった。だがこの出来事は、単に連立の終焉ではない。日本の政治が、本来の「まつりごと」の精神を取り戻せるかどうかの試練でもある。
国民民主党の玉木雄一郎代表が「首相を務める覚悟はある」と語ったのは勇気ある発言である。だが、立憲民主党が政策の根幹を棚上げして“数合わせ”の政治を試みる姿に、宮司は深い危惧を覚える。安保政策も原発政策も、国家の根に関わる重大な柱である。それを便宜的に組み替えて権力を握ろうとするならば、それは「和」ではなく「妥協」であり、政治の堕落にほかならない。
政治の本質とは、理念と誠実の積み重ねである。安保を軽視し、現実を無視して“理想”を掲げるだけでは、国を守る力は育たない。立民が玉木氏を担ぎ出すのは真心ではなく、数を頼むための方便に過ぎないとすれば、それは国を導く道ではない。玉木氏自身が「本気でなければ組めない」と言い放った言葉には、政治家としての矜持が感じられる。
宮司は高市早苗総裁にこそ、真の意味でこの国を導く覚悟を見ている。靖国神社を敬う心は、単なる信条ではない。祖先への感謝と、命を賭して国を守った英霊への誠の祈りである。その心を軽んじる政治は、どれほど華やかに見えても魂の根を失っている。
政治とは「祈り」の延長でなければならない。民の暮らしを守ること、国の独立を支えること、そして天と地、人と人との調和を築くこと。それが本来の「まつりごと」である。連立が崩れても、権力が移ろっても、この原点を見失ってはならない。
高市総裁が総理となり、国家の柱を再び立て直す日が近いと宮司は信じている。利害の政治から誠の政治へ、数の力から信義の力へ、日本が新たな「和」を取り戻すときが来た。真実の和とは、争いを恐れず、正義のために心を合わせることにある。政治が再び祈りの心を取り戻したとき、この国はもう一度、光を放つだろう。
