『論語』八佾第三に、「成事は説かず。遂事は諫めず。既往は咎めず」という言葉がある。すでに成ったことを、いつまでも言い立てない。すでに終わったことを、いつまでも諫めない。すでに過ぎ去ったことを、いつまでも咎めない。これは、過去を忘れよという教えではない。過ちを曖昧にせよという意味でもない。人間が過去に囚われ、怒りや後悔に心を支配され、今なすべきことを見失ってはならないという、深い人間修養の教えである。
人は誰しも過ちを犯す。判断を誤ることもあれば、言わなくてもよいことを言い、為さなくてもよいことを為してしまうこともある。大切なのは、その過去をどう受け止めるかである。過ちを正すことは必要である。責任を取ることも必要である。しかし、責任を問うことと、いつまでも人を咎め続けることは違う。済んだことを何度も引きずり出し、人を責め、自分の正しさを証明する材料にするならば、その心は次第に荒んでいく。
宮司は長く警察官として、多くの人間の姿を見てきた。罪を犯した者、後悔に沈む者、怒りに囚われる者、自分だけが正しいと思い込み、他人を責め続ける者。その中で何度も感じたことがある。
人間を本当に苦しめるのは、過去そのものではない。
過去に囚われる心である。
過ぎたことをいつまでも握りしめて離さない心が、人を不幸にし、家庭を暗くし、社会を険しくしていくのである。
日本人は本来、過去を水に流すという美しい心を持っていた。これは、いい加減に許すという意味ではない。相手を思いやり、自分も省み、互いに新しい一歩を踏み出すための知恵であった。ところが現代の日本では、一度の失敗をいつまでも責め、過去の発言を掘り返し、人を裁くことに熱中する風潮が強まっている。誰かを赦すより、誰かを断罪することに快感を覚える。自分の人生を磨くより、他人の過去を責めることに時間を費やす。
これでは、人は育たない。
社会は明るくならない。
国も強くならない。
今の日本に必要なのは、他人を裁く言葉ではない。自分を正す覚悟である。過去の政治を責めるだけでは、日本は甦らない。先人の苦労を忘れ、今の不満だけを並べても、未来は開けない。誰かが悪い、時代が悪い、国が悪いと嘆いているだけでは、何一つ変わらない。
問うべきは、いつも自分自身である。
今日、自分は誠を尽くしたか。
今日、自分は人に親切であったか。
今日、自分は仕事を丁寧にしたか。
今日、自分は祖先に恥じない生き方をしたか。
今日、自分は日本のために、わずかでも何かを成したか。
過去を咎めるより、今を正す。
他人を責めるより、自分を磨く。
不平を言うより、黙って一歩を踏み出す。
これが、令和の日本人が取り戻すべき生き方である。安倍晋三元総理は、どれほど批判を浴びても、国のために前へ進まれた。過去に囚われるのではなく、日本の未来を見据え、子供たちの世代に強く美しい国を残そうとされた。その志を受け継ぐとは、単に言葉で称えることではない。私たち一人ひとりが、日々の暮らしの中で、過去に囚われず、今を整え、未来へ向けて歩むことである。
もちろん、過去を忘れてはならない。先人の歩みを学び、過ちから教訓を得て、同じ過ちを繰り返さぬよう自らを鍛えることは大切である。しかし、学ぶことと囚われることは違う。反省することと、いつまでも自分や他人を責め続けることは違う。
人は過去を変えることはできない。
しかし、過去の意味を変えることはできる。
失敗は修養の糧となる。苦しみは魂を磨く砥石となる。後悔は明日を正しく生きるための灯となる。だからこそ、今日を大切にせねばならない。只今を整えねばならない。一日一日を、神前に恥じぬ心で生きねばならない。
日本の再生もまた、ここから始まる。
大きな声で他人を責める者ではなく、黙って自分を律する者が国を支える。過去に怒り続ける者ではなく、未来のために汗を流す者が国をつくる。不平不満を並べる者ではなく、今いる場所で誠を尽くす者が、日本を甦らせる。
過去は過去である。
今は今である。
そして未来は、今日の心がつくる。
咎める心を慎み、赦す心を養い、ただ今を正しく生きる。その積み重ねこそ、令和の日本人が進むべき道である。