読書の秋という言葉がある。
秋の夜長、静かに本を開き、言葉と向き合う。宮司は、この時間を今の日本人にこそ取り戻してほしいと思う。
現代は情報の時代である。携帯電話を開けば、ニュースも、動画も、短い言葉も、怒りも、笑いも、次々と流れてくる。人は一日に膨大な情報を浴びている。だが、情報を浴びることと、知を深めることは違う。
知っているつもりになっているだけではないか。
反応しているだけではないか。
怒り、笑い、忘れ、また次へ流されているだけではないか。
宮司は、そこに現代人の危うさを見る。情報は増えた。しかし、人間の背骨は太くなっただろうか。言葉は増えた。しかし、心は深くなっただろうか。
だからこそ、古典へ帰るのである。
古典とは、古い本という意味だけではない。長い年月に耐え、多くの人々の心を磨き、時代を越えて読み継がれてきた言葉である。『論語』、『孟子』、『大学』、『中庸』、『古事記』、『万葉集』、『葉隠』。そこには、人間はどう生きるべきか、国とは何か、忠とは何か、孝とは何か、死とは何か、恥とは何かという根本の問いがある。
古典は、流行を追わない。
古典は、読者に媚びない。
古典は、耳触りのよい慰めだけを与えない。
だからこそ、人を鍛える。
若い人は、難しい本を恐れなくてよい。初めからすべて分からなくてもよい。一行でよい。一節でよい。心に引っかかった言葉を、何度も読む。その言葉を、今日の自分の行いに照らしてみる。それだけで、読書は修行となる。
宮司は、読書を知識の装飾とは見ない。読書とは、己を裁く鏡である。古典の前に立つ時、人は賢くなった気になるのではない。むしろ、自分の浅さ、弱さ、移ろいやすさを知らされる。だから古典はありがたい。人を褒めて眠らせるのではなく、人を叱って目覚めさせるからである。
古典を読むとは、昔の人を崇拝することではない。昔の人と対話することである。安全な時代に生きる現代人が、乱世を生きた人の覚悟に触れる。便利な時代に生きる日本人が、不便な時代を誠で生きた人の深さに触れる。そこに、己の小ささを知る機会がある。
宮司は思う。今の日本人は、知識よりも物差しを失っている。何が尊いのか。何が恥ずべきことなのか。何を守り、何を捨てるべきなのか。その物差しが曖昧になっているから、世論の風に揺れる。強い言葉に流される。多数派に寄りかかる。
古典は、その物差しを与えてくれる。
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古典は、名句を覚えるためだけのものではない。渋沢栄一の『現代語訳 論語と算盤』は、『論語』の教えを仕事、人との交わり、己の修養へつなげて読みたい方の入口となる。
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もちろん、古典を読んだからすぐ立派になるわけではない。読書だけで人格が完成するわけでもない。だが、よき言葉を胸に置く人間と、何も持たない人間では、困難の時に差が出る。迷った時、怒った時、失敗した時、古典の一節が心を支えることがある。
「できないのではない。しないだけである」
「知るとは、物事に格ることである」
「己を修めて、人を安んずる」
こうした言葉は、単なる知識ではない。人生の場面で、自分を叱り、励まし、立ち上がらせる力となる。
家庭にも古典が必要である。父母が本を読む姿を、子は見ている。大人が静かに言葉と向き合う姿を見れば、子供は読書がただの勉強ではなく、生き方を整える営みであると知る。
学校にも古典が必要である。古典を試験のためだけに教えてはならない。古典は、現代語訳であってもよい。声に出して読むだけでもよい。そこから、人間としての根を学ばせねばならない。
政治家にも古典が必要である。目先の数字や支持率だけで国を動かす者に、国の百年は見えない。歴史を読み、先人の苦悩を知り、己を律する言葉を持つ者でなければ、国難の時に立てない。
国を論じる者ほど、古典に帰らねばならない。新しい言葉だけで国は立たない。流行の思想だけで民は守れない。時代を超えて残った言葉には、血を流し、恥を知り、責任を背負った人間の重みがある。その重みに触れぬまま語られる正義は、音ばかり高く、根が浅い。
読書の秋に、宮司は勧めたい。
流れる情報から少し離れよ。
怒りを煽る画面を閉じよ。
一冊の古典を開け。
たとえ一日一頁でもよい。その一頁が、人の心に根を下ろす。根を持つ人間は、簡単には倒れない。根を持つ国民が増えれば、国もまた揺らぎにくくなる。
日本を甦らせる道は、遠いどこかにだけあるのではない。静かな部屋で一冊を開き、先人の言葉に耳を澄ませる。その小さな時間の中にも、国を立て直す力は宿る。
宮司は、古典を読む人が一人増えることを軽く見ない。一人の心に物差しが立てば、その家庭の言葉が変わる。家庭の言葉が変われば、子供の背骨が変わる。子供の背骨が変われば、やがて国の立ち姿も変わる。国を立て直すとは、遠くの誰かが一度に成し遂げることではない。静かな机の上で、先人の言葉に打たれた一人の心から始まることもある。
古典の前では、現代人の得意な言い訳は通じない。忙しい、難しい、役に立たない、古い。そのような言葉を並べても、先人は静かに問い返してくる。では、お前は何を尊び、何を恥じ、何を守るのか。宮司は、その問いから逃げてはならないと思う。
情報ではなく、智慧を求めよ。
反応ではなく、思索を深めよ。
古典へ帰ることは、過去へ逃げることではない。
未来へ向かうために、日本人の背骨を取り戻すことなのである。
秋の夜、静かに一冊を開く。その一頁に打たれた心が、明日の言葉を正し、明日の一歩を強くしていくのである。