逆風の時代にこそ、志の真価が問われる

令和7年5月19日、本日発売された『週刊ポスト』最新号の22ページ。
そこに、安倍晋三元総理の銅像建立の記事が掲載されました。
世間では、連日のように「安倍派叩き」という言葉が飛び交い、まるで歴史そのものが捻じ曲げられるかのような印象操作が進んでいる。しかし私は、このような逆風の中だからこそ、志を貫く者の姿がいっそう尊く映ることを忘れてはならないと思う。
安倍晋三元総理は、単なる一国の宰相にとどまらず、日本の歴史と精神を背負った人物であった。志を持ち、祖国の未来を見据え、外交にも国内改革にも自らの信念をもって臨んだ。その姿勢には、かつての維新の志士たちに通じる胆力があったと私は確信している。
しかし、志ある者は、時として時代に誤解され、時として理不尽な批判にさらされる。歴史を見れば、それは繰り返されてきたことだ。坂本龍馬も、西郷隆盛も、生きている間にその全てが理解されたわけではない。むしろ、亡き後にこそ真価が光を放ち、世がその存在を再評価するのが常である。
いま、安倍元総理の銅像建立は、単なる「記念」や「顕彰」ではない。これは、志を継ぐという決意の表れであり、未来の世代への「問いかけ」でもある。銅像が静かに立ち尽くすその姿に、子や孫たちはこう問いかけられるであろう。「君たちは、この国のために、何を思い、何を成すのか」と。
私たちは今、耐えの時を生きている。けれども、苦しみに顔を背けることなく、信じる道を歩み続ける者は、いつか必ず時代に選ばれる。
私は信じている。必ずや、安倍元総理が日本の歴史において、高く評価される日が訪れることを。彼が命をかけて護ろうとしたこの国の魂が、再び光を放つ日が来ることを。
その日まで、私たちは旗を掲げ続ける。志を曲げることなく、誇りを失わず、ただひたすらに祖国を想い、歩み続ける。
それこそが、銅像に託された本当の願いであり、残された者の使命ではなかろうか。
