愛の言霊に生きる

宮司は、愛の本質を三つの言霊に込めている。「愛は無償」「愛は尊敬」「愛は無限」。この三つは、ただの感情論ではなく、人生を導く普遍の道しるべである。
「愛は無償」とは、見返りを求めず、ただ与え尽くす心である。損得や返礼の期待を超え、相手の幸福そのものに歓びを感じる境地を指す。「あなたのために何かしてあげている」という態度ではなく、「あなたのために尽くさせていただけることがうれしい」という感謝と奉仕の心。その姿勢に、愛の本質がある。恨みや期待が入り込む時点で、もはやそれは無償ではない。無償の愛は、天皇陛下や皇后陛下が国民に注がれる慈しみのように、静かに深く、そして限りない。自己を超えて人に尽くすことは、人間としての誇りであり、喜びでもある。
無償の愛を信じられない者の人生には、神仏が入り込む隙がない。我欲の強さは人を遠ざけるが、人が喜ぶ顔を見て嬉しくなる心は、誰の中にも宿る。その心を磨くことが、愛の道への第一歩となる。
「愛は尊敬」とは、真の愛が相手への深い敬意から始まり、敬意を失わずに終わることを意味する。相手を心から尊敬できなければ、その関係はいずれ崩れる。同情や一時の情熱、財産や容姿への執着では、永続する愛には至らない。尊敬のない愛は、自己満足や支配に過ぎない。愛する者同士が互いを尊重し合うことでこそ、愛は静かに育ち、揺るぎないものとなる。最高の愛とは、心の奥底から相手を敬い、その存在を全身で受け入れる関係である。
「愛は無限」とは、若き日の情熱を起点とし、年を重ねても変わらぬ思いを抱き続けることである。愛とは一瞬の感情ではなく、日々積み重ねる行いの中に生きている。ともに白髪となり、命尽きるまで寄り添い続ける覚悟こそ、真の愛である。愛は気まぐれな感情でも、条件付きの取引でもない。苦しみの中、悲しみの中、病や失意、困窮の中でもなお、離れず歩みを共にする姿にこそ、永遠の愛の姿がある。
宮司は、愛を獣の本能と混同してはならないと説く。愛は、いたわり合い、支え合い、励まし合う中で育まれるものであり、互いの手を離さずに進む二人三脚の歩みである。どんな時でも隣に立ち、倒れたら支え、迷えば共に悩み、光の中でも影の中でも変わらぬ思いを保ち続ける。それが愛である。
この三つの言霊に宿るのは、愛の真理であり、人としての在り方である。宮司は、その言霊を通じて、現代を生きる人々に問いかけている。与える愛、敬う愛、尽きぬ愛を胸に抱いて、人と向き合う日々を大切にしてほしいと願っている。