東洋の英傑、東郷平八郎という名を聞いて、胸の奥が静かに熱くなる日本人は、いまどれほど残っているだろうか。宮司は、令和の世にあって、学校教育や公共の言説の中から、日本の偉人たちの名が消えつつある現状に、強い違和感を覚え続けてきた。
明治という時代、日本は列強に囲まれ、国の存亡を賭けた厳しい選択を迫られていた。その最前線に立ち、国の命運を一身に背負った人物が、東郷平八郎である。東郷、乃木、大山。彼らを知らずして、日本という国の骨格を語ることはできない。
東郷平八郎は、決して天才肌の奇人ではなかった。薩摩の地に生まれ、若き日に薩英戦争で西洋列強の砲力を目の当たりにし、海から来る脅威は海で防ぐしかないという現実を、身をもって悟った一人の武人であった。その後の戊辰戦争、留学生活、数々の実戦経験は、すべてが後年の大局観と胆力につながっていく。
イギリス留学により世界を知りながらも、東郷の精神の芯が揺らぐことはなかった。学んだのは技術であり、制度であり、戦術である。しかし、判断の基準に置いたものは、常に日本人としての誠であった。日清戦争における高陞号事件で示された冷静沈着な対応は、その象徴である。感情や衝動ではなく、責任と覚悟に基づく決断。それが、後に世界から評価される所以となった。
日露戦争、日本海海戦において、東郷は連合艦隊司令長官として、当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を迎え撃った。そこで掲げられた「皇国の興廃この一戦に在り」という言葉は、単なる檄ではない。自ら退路を断ち、全責任を引き受ける者のみが発することを許される、覚悟の言葉であった。
東郷が繰り返し説いたのは、奇策でも、神頼みでもない。平素の鍛錬、不断の努力、そして至誠である。勝利とは、偶然与えられるものではなく、積み重ねた準備の先にのみ現れる結果であるという厳しい真理を、東郷は生涯を通じて示した。
戦後、日本はこの種の人物像を語ることを避けるようになった。英雄を語れば軍国主義だと決めつけ、誇りを語れば危険だと封じ込めた。その結果、日本人は、自らの足元にある精神の支柱を見失っていったのではないだろうか。
宮司は思う。東郷平八郎が遺した最大の功績は、勝利そのものではない。誠を尽くし、職分を全うし、結果のすべてを引き受ける生き方を、後世に示したことである。五省に示された省察の言葉は、軍人に限らず、現代を生きるすべての日本人に向けられた問いである。
至誠にもとることはなかったか。
言行に恥じるところはなかったか。
気力を失ってはいなかったか。
努力を怠ってはいなかったか。
安易に流されてはいなかったか。
これらは、時代が変わっても色褪せることのない、日本人の精神を磨くための鏡である。
令和の日本は、戦争の時代とは異なる。しかし、目に見えぬ形で国の根幹が揺さぶられている点では、決して安穏な時代ではない。価値観は拡散し、責任は曖昧になり、誠よりも都合が優先されがちである。だからこそ今、東郷平八郎という存在が、静かに重みをもって立ち現れてくる。
大和魂とは、己を律し、与えられた場で最善を尽くし、結果から逃げない姿勢の中に宿る。むやみに誇るものでも、ただ寄りかかるものでも、勇ましさの象徴でもない。東郷平八郎の生涯は、そのことを雄弁に物語っている。
宮司は願う。日本人が再び、自国の偉人を素直に学び、誇りをもって語れる国になることを。その先にこそ、形だけではない真の平和と、自立した日本の未来があると信じている。