親孝行という言葉を、古い道徳だと思う人がいる。
親に従えという圧力のように受け取る人もいる。家庭の形が変わり、親子関係もさまざまである今、親孝行を語ることに慎重な人もいるであろう。
宮司は、その複雑さを軽んじるつもりはない。すべての親子関係が温かいわけではない。親との間に傷を抱える人もいる。簡単に感謝せよと言われても、心がついていかない人もいるであろう。
それでもなお、親孝行という言葉を捨ててはならないと思う。
親孝行とは、親の言いなりになることではない。
親孝行とは、受けた命をどう生きるかという問いである。
親を偶像のように扱う必要はない。親にも弱さがあり、過ちがあり、時に子を傷つけることもある。だが、命を受けたという事実そのものまで憎しみに渡してはならない。宮司は、親孝行の根は、親を美化することではなく、受けた命を粗末にしない決意にあると考える。
人は、父と母を通してこの世に生まれる。たとえ関係に痛みがあっても、命が受け継がれたという事実は消えない。その命を粗末にしないこと。自分を投げ捨てないこと。父母祖先に恥じぬように、今日を誠実に生きること。そこに、親孝行の根本がある。
親を喜ばせることは尊い。元気なうちに会うこと、声をかけること、困っていれば支えること。それらはもちろん大切である。だが、親孝行はそれだけではない。
最大の親孝行は、自分の命を正しく用いることである。
父母から受けた命を、怠惰に沈めない。恨みだけに使わない。損得だけに費やさない。世のため、人のため、家族のため、祖国のために、少しでも善く用いる。その生き方こそ、親への報恩である。
現代は、個人の時代である。自分の人生は自分のものだという考えは、ある意味で正しい。人は他人の所有物ではない。子は親の道具ではない。自分の道を選ぶ自由は尊い。
しかし、自分の人生は自分だけのものだと言い切ってしまう時、人は命の縦糸を忘れる。
人の命は、祖先から流れてきたものである。父母祖先の苦労、祈り、涙、働きがあって、今がある。自分一人の力で生まれ、自分一人の力で育った人間などいない。
この事実を忘れた自由は、軽くなる。
親孝行は、自由を縛るものではない。自由に根を与えるものである。自分はどこから来たのかを知るからこそ、どこへ向かうかを考えられる。受けた恩を知るからこそ、自分の命を無駄にしない覚悟が生まれる。
恩を知らぬ自由は、やがて孤独なわがままになる。恩を知る自由は、責任を伴う道となる。父母祖先の祈りを背に受けていると知る者は、自分の一日を簡単には投げ出さない。今日の仕事、今日の言葉、今日の親への一言。その小さな積み重ねが、命の縦糸を強くしていく。
宮司は、若い人に伝えたい。
親に感謝できるなら、感謝を伝えよ。
照れくさくても、元気なうちに声をかけよ。
会えるなら会え。
親の時間は、永遠ではない。
だが、親との関係に痛みがある人にも伝えたい。無理に心にもない言葉を言う必要はない。だが、自分の命まで憎んではならない。親を許せない日があっても、自分の人生を粗末にしてはならない。あなたが誠実に生きることもまた、命の流れを清める道である。
親孝行は、家庭だけの問題ではない。国の問題でもある。親を軽んじ、祖先を忘れ、子孫への責任を考えない社会は、必ず根を失う。根を失った社会では、損得だけが物差しとなり、命の尊さが見えにくくなる。
家庭で親孝行が語られなくなれば、子供は恩を知る機会を失う。恩を知らぬ人間は、受け取ることを当然と思う。受け取ることを当然と思う社会は、やがて感謝を失い、不満ばかりが増えていく。
感謝は、人の心を強くする。
恩を知る者は、簡単に折れない。
自分の背後に父母祖先の祈りがあると知る者は、孤独の中でも立つことができる。
宮司は、父母祖先を思うたび、自分が今ここに立てるのは自分一人の力ではないと感じる。受けた命、受けた教え、受けた御縁。そのすべてに支えられている。
だからこそ、今日を粗末にしてはならない。
親孝行とは、古い道徳ではない。
受けた命への礼である。
父母祖先と子孫をつなぐ、命の作法である。
親にできることを、今日する。自分の命を、今日正しく用いる。その一つ一つが、家庭を清め、国の根を強くしていくのである。