宮司は、日々の言葉ほど人の心を映すものはないと思っている。
おはようございます。
ありがとうございます。
申し訳ありません。
いただきます。
ごちそうさまでした。
どれも短い言葉である。だが、その一言の中に、日本人が長く大切にしてきた礼と慎みが宿っている。
日本語を粗末にしてはならない。
言葉を粗末にすることは、心を粗末にすることだからである。
現代は、言葉が速い。短く、強く、刺さる言葉が好まれる。ネット上では、人を嘲る言葉、怒りを煽る言葉、相手を切り捨てる言葉が簡単に広がる。顔を合わせていれば言えないような言葉が、画面の向こうには投げつけられる。
だが、言葉には霊が宿る。
古来、日本人は言霊を重んじてきた。祝詞は言葉によって場を清め、祈りを神々へ届ける。反対に、荒い言葉、偽りの言葉、軽い言葉は、人の心を曇らせ、世を乱す。
宮司は、言葉を単なる道具とは見ない。言葉は、魂の姿である。どのような言葉を使うかは、どのような心で人に向かっているかを示している。軽い言葉ばかりを使えば、心も軽くなる。人を傷つける言葉に慣れれば、やがて人を傷つけることに鈍くなる。
挨拶は、最も身近な言霊である。
朝、家族に挨拶をする。近所の人に頭を下げる。職場で声をかける。学校で先生や友人に挨拶をする。そこには、あなたの存在を認めています、今日も共に生きましょう、という静かな礼がある。
挨拶のない家庭は、冷える。
挨拶のない職場は、荒れる。
挨拶のない地域は、つながりを失う。
たかが挨拶ではない。挨拶は、人と人の間に道を開く第一歩である。
敬語もまた、日本人の大切な文化である。敬語は面倒だ、堅苦しい、古いと言う人もいる。確かに、形式だけの敬語には空虚さもある。しかし、敬語の本質は、相手との距離を丁寧に測る心である。
親しさと無礼は違う。
率直さと乱暴は違う。
自由な言葉と、粗末な言葉は違う。
敬語を使うことで、人は相手を立てることを学ぶ。自分を下げることを学ぶ。場にふさわしい言葉を選ぶことを学ぶ。これは単なる言語技術ではない。心の作法である。
礼とは、人を縛る鎖ではない。人と人が傷つけ合わずに生きるための間合いである。敬語を失う時、人は近づきすぎる。近づきすぎれば、遠慮が消え、遠慮が消えれば、侮りが生まれる。日本語の美しさは、この間合いを静かに守ってきたところにある。
宮司は、子供たちにこそ美しい日本語を教えたい。難しい言葉を詰め込む必要はない。まず、挨拶である。ありがとうである。ごめんなさいである。いただきますである。人の目を見て、言葉を届けることである。
この基本が失われれば、どれほど学力が高くても、人としての根が弱くなる。
言葉は家庭で育つ。父母が荒い言葉を使えば、子も荒くなる。父母が感謝を口にすれば、子も感謝を覚える。父母が互いを尊重する言葉を使えば、子は人を敬うことを学ぶ。
だから、大人は自分の言葉を恐れねばならない。
子供は、大人の言葉を聞いている。父が母に何と言うか。母が父をどう語るか。大人が祖国をどう語るか。政治家をどう罵るか。店員にどう接するか。その一つ一つが、子供の中に物差しとして残る。
メディアにも同じことが言える。見出しは国民の心を動かす。テレビの一言、ネット記事の短文、SNSに流れる表現。その言葉が荒ければ、社会の心も荒れる。報道の自由は尊い。しかし、自由な言葉にも責任がある。
日本語には、見えない国柄が宿っている。
相手を立てる心。
場を読む心。
直接言いすぎない慎み。
感謝を形にする礼。
自然や季節を細やかに感じ取る感性。
これらは、日本語とともに受け継がれてきた。日本語が乱れる時、その背後にある心の形も乱れていく。
もちろん、言葉は時代とともに変わる。新しい表現が生まれることも自然である。若者の言葉をすべて否定する必要はない。だが、変わってよいものと、失ってはならないものがある。
ありがとうを失ってはならない。
ごめんなさいを失ってはならない。
いただきますを失ってはならない。
この三つの言葉を失えば、人は傲慢になる。傲慢な人間が増えれば、社会は声ばかり大きくなり、心は荒れていく。宮司は、難しい改革を語る前に、まず家庭の中でこの三つの言葉を取り戻すべきだと思う。
目上を敬い、年下を慈しみ、相手に礼を尽くす日本語の心を失ってはならない。
宮司は、今日からできる日本再生があると思う。
言葉を正すことである。
朝、挨拶をする。食前に手を合わせる。感謝を口にする。乱暴な言葉を飲み込む。相手を傷つける前に一呼吸置く。子供の前で祖国を粗末に語らない。
それだけで、家庭は少し変わる。職場は少し変わる。地域は少し変わる。
言葉を正すことは、心を正すことである。
日本語を守ることは、日本人の魂の形を守ることである。
どうか、日々の一言を粗末にしないでほしい。その一言の中に、国柄は静かに息づいているのである。