『論語』子路篇に、今の時代にこそ胸に刻みたい言葉がある。
「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」
君子は、人と調和しても、むやみに同調はしない。小人は、人に合わせているように見えても、心からの調和には至らないという教えである。
短い言葉である。しかし宮司は、この「和」と「同」の違いに、人間関係だけでなく、日本という国のあり方を考える大切な鍵があると思う。
「和」と「同」は、似ているようで、まったく違う。
和とは、自己の主体性を保ちながら、他者と協調することである。自分の考えを持つ。相手の考えにも耳を傾ける。違いを認め、それでも共に歩む道を探す。それが和である。
同とは、己の考えを手放し、ただ周囲に合わせることである。嫌われたくない。争いたくない。責任を負いたくない。そのために、正しいと思うことまで曲げてしまう。それは協調ではない。迎合である。
和には、芯がある。
同には、芯がない。
和は、違いを生かす。
同は、違いを消そうとする。
宮司は思う。本当の和とは、皆が同じ色に染まることではない。異なる色が、それぞれの美しさを失わず、一つの調べを生むことである。
味噌汁も、味噌だけでは味噌汁にならない。水があり、出汁があり、具があり、それぞれが持ち味を保ちながら一つになる。音楽も、一つの音だけでは豊かな響きにならない。高い音があり、低い音があり、異なる音が互いを生かして調和をつくる。
人も同じである。
家族の中でも、意見は違う。職場でも、地域でも、国でも、考えは違う。その違いを敵意へ変えるのではない。かといって、波風を恐れて黙り込むのでもない。誠をもって語る。礼をもって聴く。譲るべきところは譲り、守るべきところは守る。
これが、君子の和である。
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後世の神道書『先代旧事本紀大成経』には、神道・儒教・仏教の関係を説く一節がある。聖徳太子の言葉として伝えられてきたが、今日では同書そのものが近世に成立した書物と見られている。ゆえに、太子の直言と断定することは慎まねばならない。
しかし、そこに示された三つの道を排斥せず、それぞれの働きを見ようとする姿勢には、深く学ぶべきものがある。
神道は道の根本であり、天地と共に起こって、人の始めの道を説く。儒教は道の枝葉であり、人々と共に起こって、人の中ほどの道を説く。仏道は道の花実であり、人の知恵が熟した後に起こって、人の終わりの道を説く。そして、いたずらに一つを好み、一つを憎むのは私情であるという。
根がある。
枝葉がある。
花が咲き、実を結ぶ。
根だけで木は育たない。枝葉だけでも立つことはできない。花実だけが突然生まれることもない。それぞれの役割は異なる。だが、異なるからこそ、一つの命を支えることができる。
神道は、天地自然と祖先への感謝を教える。人は自分一人の力で生きているのではない。山川草木の恵みを受け、父母から命をいただき、祖先から国と文化を受け継いで生きている。その根源へ頭を垂れる道である。
儒教は、人と人との間にある道を教える。父母を敬う。年長者を敬う。友を信じる。言葉を慎む。約束を守る。己を修め、家庭を整え、社会に責任を持つ。日々の暮らしの中で徳を実践する道である。
仏教は、生老病死の苦しみと向き合い、執着を離れ、慈悲を育てる道を説く。人は必ず老い、病み、別れ、命を終える。その逃れられぬ真実を見つめながら、他者の痛みに寄り添い、心の安らぎを求める道である。
どれか一つを褒めるために、ほかを憎む必要はない。
神道を大切にすることは、儒教や仏教を侮ることではない。儒教を学ぶことは、神々への感謝を失うことではない。仏教に手を合わせることは、日本人としての根を捨てることではない。
根は根として深く張る。枝葉は枝葉として風を受ける。花実は花実として命を次へつなぐ。それぞれが己の役割を果たす時、木は豊かに茂るのである。
ここにも「和して同ぜず」の精神がある。
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日本人は古来、異なるものを直ちに排斥せず、自らの国柄の中で受け止め、生かしてきた。神社の祭りを守り、寺で先祖を供養し、儒教の言葉に生き方を学ぶ。そこには矛盾ではなく、違いを抱きながら調和を生む知恵があった。
もちろん、すべてを無分別に混ぜればよいということではない。和とは、境目をなくすことではない。それぞれの由来と教えを正しく知り、敬意を払い、そのうえで共に生きる道を見いだすことである。
今の社会には、「同」が増えてはいないか。
周囲の顔色をうかがう。多数の意見に流される。SNSで多くの人が責めていれば、自分も責める。流行していれば正しいと思い、批判されれば間違いだと思う。自分で確かめず、自分で考えず、自分の言葉で語らない。
それでは、心からの和は生まれない。
表面では笑っていても、内側には不満が残る。皆が同じことを言っていても、誰も責任を取らない。異なる意見を恐れる社会は、静かに見えて、実は脆いのである。
宮司は、若者に伝えたい。
自分の考えを持て。
だが、独り善がりになるな。
人の言葉を聴け。
だが、ただ流されるな。
正しいと思うことを、礼を失わずに語れ。間違いに気づいたなら、意地を張らずに改めよ。自分と違う相手の中にも、学ぶべきものを見いだせ。
それが主体性である。それが寛容である。それが和である。
家庭でも今日からできる。相手の話を最後まで聴く。意見が違っても人格を否定しない。挨拶をする。感謝を言葉にする。過ちを詫びる。守るべき約束は守る。小さな実践の積み重ねが、家庭の和をつくり、地域の和をつくり、国の和をつくる。
神前に立つ時、人は皆、肩書も評判も離れて、一つの命として頭を垂れる。そこでは、自分だけが正しいという慢心も、周囲に流される弱さも、静かに照らし出される。
自分を失わず、他者を排さない。
違いを恐れず、争いを求めない。
根を守り、枝葉を茂らせ、花実を次の世代へ手渡す。
宮司は今日も神前に祈る。令和の日本人が、迎合を和と取り違えず、自らの心に一本の芯を持つことを。神道・儒教・仏教、それぞれの道に敬意を払い、私情による好き嫌いを超えて、共に生きる知恵を取り戻すことを。
君子は和して同ぜず。
違うからこそ、互いを生かすことができる。
その強く、温かな和こそ、日本人が次の世代へ伝えるべき心なのである。